近年目立って[子供の虐待]がニュースで報道されることが多くなりましたが、昔から子供を育てる上で手を上げること(度が過ぎない)は、ごく普通な叱り方だったと思います。
悪い事をしたり、やってはいけない事をしたり、子供は善悪を判らないまま行動してしまいます。そこで理性のある動物(人間)としては、はっきりと教えなければなりません。
そこで手を上げるか口頭で伝えるかが問題になってくるのですが、昔(昭和時代)は学校でも先生にゲンコツされたりビンタされたりが当たり前でした。そしてまた、親も先生に手を上げられ叱られた事を歓迎するものだったのです。
恐い先生の時は廊下を歩いて来る足音だけで、パッと教室が静かになっていくのでした。しかし一方で、叱らないし怒らない先生の時は静かにはなりませんでした。
人間も動物も同じ様なもので、調教人が来るのと他の人が来るのとではその構え方が全く違ってくるのです。
育っていくうえで、時には体で覚えるちょっとしたお仕置きの痛みも、後々になって想い出となり、そしてそれは必要なことであると思うのです。
いつの頃からでしょうか、先生が手を上げると問題になってしまう時代になってしまいました。親も子供に手をあげるといけない雰囲気となってきていますが、それは間違っていると思います。
近年「虐待」という言葉(概念)が目立ってきたので、過敏反応になってしまったのです。なんでもかんでも手を上げるとすぐに「虐待だ!」と訴えることをし易くさせた雰囲気になっています。
「度が過ぎた叱り」は「虐待」になりますが、それは愛情が欠けた行為であり「お仕置き」ではなく正に「虐め」です。
しかし、昔からの様に子供は悪い事をしたら「叱られて叩かれる!」と覚えていかなければなりません。
ゲンコツやビンタの痛み、痛みは嫌ですから「やってはいけない悪いこと」を覚えるのです。そうやって子供たちは「良い事・悪い事」を覚えながら成長していくのです。
口で叱られるだけでは身に沁みないことが必ずあるのです。子供も高度な生物ですから「賢い」のです。「痛みや罰がないなら、またやっても同じだ!」と考える者もいるわけです。
そういう子供が青年になって、やがて大人になって社会へ出ると様々な「人でなし的な事件事故」を起こす時代になってしまうのです。
自分の血(DNA)で作られた子供を憎い動物がこの世にいるならば、種の保存は成り立たなく地球上に生物は存続していません。
オスは種付けが使命ですから、子育てはほとんどメスがしている種が多いです。ライオンは他のオスの子供は排除して、新たに自分の子供を作ろうとします。
人間の場合も似たようなことをする人はいます。連れ子には自分の血(遺伝子)が入っていないため、どうしても深い愛情が感じられないものです。特に男は女よりも動物本能がはっきり出ますので、どうしても「虐め」に近づいていくのです。
自分の子は心から愛せる親がほとんどでしょうけれども、他の子供は心から愛せないこともあるでしょう。人間も所詮 DNAによって構成されている動物ですから、そこは仕方ありません。自分の種が優先なのです。
「虐待」は怒りと憎しみの心が支配して行われるもので、「躾け」は怒りは多少あっても憎しみはそこに入ってはいません。
「躾け」で子供に手を上げたとしても、後になって「可哀そうだったな」と思って慰めるでしょう。そこが「虐待」と大きく違う点で、憎悪が入っていない証拠です。
「虐め」という仕置きには、どう考えてもその子の後の事を考えていないのです。だから度が過ぎることができるのです。
行為を受けた子供には、肉体的のも精神的にも傷跡が残ってしまい、その子のその後の生き方をも変えてしまいます。
虐待(虐め)には子供に対する愛情は入っていなく、教えでも躾けでもない「単なる拷問」であり「躾けのお仕置き」とは全く別物なのです。
数年前の事、隣近所から昼となく夜となく聞こえてくる子供の泣き声に、「もしかしたら虐待しているのか?」と思える様なことがありました。
それは時に尋常ではない泣き声がしたからでした。嗚咽の様な酷い泣き声は、うちだけではなく他の家にも伝わっていたはずです。
しかし、誰も児童相談所などへ通報する人はいなかったようです。そこが大変難しい点で、その子の性質によって大きく反応している場合は少しの叱り(苦痛も与えていない叱り)が大きな「虐待」となって大事になってしまう可能性もあります。
悪い事をした子供を叱りつけビンタしてしまったその都度、警察に捕まっていたならば確かに切りがなく、そんなのでいちいち警察沙汰になってしまったなら 全国の親が犯罪歴人になってしまいます。
数年後その家庭は引っ越してしまいましたが、結果的にあれが「虐待か躾けか」を見分けられる人はいませんでした。
たとえ親に酷い戒めを受けていても、子供には頼るものが親しかありませんから、親の言うことをきくしかありません。親にどんな虐めを受けても逃げる考えさえ浮かびません。どんな動物も幼児の時は、親が全ての生きる頼りなのです。
私も過去に子供に手を出して叱った時代がありましたが、そこに憎しみは存在しませんから後で慰める愛情が浮んでくるのです。
やってはいけない事、悪いことをした時は手を出しても叱るべきです。その子が大きく育った末は、「あんな事をして昔すごく怒られたことがあったなぁ!」と思い出すはずですから・・。
虐待といわれる度が過ぎる行為は全くの別物として、子供を叱るのは親として当然なことであり、また必要なことです。
また、親だといえ(あまりにも酷いことを子供がやれば)感情的になる事も仕方がないことです。それが日常的に(いつも)なると別の話ですが、時にはとっさに手を出さなければいけないこともあるでしょう。
少子化の現代はどうだか分かりませんが、誰だって子供の頃はお母さんやお父さんにビンタやゲンコツを食ったことがあるはずです。
逆に全ての親みが叱ることを禁止されたならば、どんな人間が完成するか解かるでしょう。叱りの痛みがなければ気が付かないことだって沢山あるのです。
もし神経が無ければキズを負っても痛みがありません。手足を切断されても痛みません。
それは生物の存続に意味の無い構造となってしまい、種はすぐに絶えるでしょう。
「叱られた痛み」は覚えであり、教えであり想い出にもなるのです。
それは「虐め」とは全く別物で、そこに「愛情」が入っているものだからです。