これは今までの「ゴジラ映画」とは異なった「人類への警告書」だと思う記




映画【ゴジラ-1.0】は、昨年末(2023年末)に公開され日本で初めてアカデミー賞(視覚効果賞)を受賞となった作品となりました!

私は子供の頃に観に連れて行ってもらった「それはそれは昔のゴジラ映画」以来、全く興味もなく観に行くこともありませんでしたが、先月「今回の作品は今までのような怪獣映画ではありません!」というあるYouTube動画の話を聞いて、どういう意味なのかその言葉に興味が湧いて今回だけは約半世紀振りに映画館へ行って観てみようと思ったわけです。

今までのゴジラ映画は単に怪獣の恐怖映画というイメージがあったので全く興味は湧きませんでしたが、「今までとは違う・何か」を近年に迫り来るといわれている懸念事と同じに思えて(何か分からない胸騒ぎを重ねて)興味が出てきたのでした・・

というわけで今回は、この映画を最後まで観ての感想とこのシナリオの深いところで訴えていたのだろう事をSNSで他の方が言っていたことと合わせて考えてみたいと思います。

映画「ゴジラ-1.0」という題名に何か深い意味があるような思い

今回の「ゴジラ-1.0」という題名について何故マイナス1.0なのかを調べてみたところ、「映画ゴジラ」が初めて作られて映画館に公開となったのは太平洋戦争が終わった9年後の昭和29年(1954年)東宝特撮映画による日本初の特撮怪獣映画でしたが、今回の作品の時代背景はまだ戦争が終わってはいなかった1945年の出来事から始まっているという点戦後のゼロになってしまった日本の姿に更に追い打ちをかけてマイナスにまでしてしまうという意味が含まれているということでした。

まずは作品の感想等の前に、この今回の「物語の簡単なあらすじ」から振り返ってみます。

太平洋戦争も終わりを迎える頃の1945年(昭和20年)、特攻隊として飛んでいた敷島浩一は途中で零戦が故障したと偽り小笠原諸島にある大戸島の守備隊基地に着陸するが、そこで見たことのない恐竜に基地が襲われる出来事に遭遇する。

そこで整備兵の橘宗作から「戦闘機の機関砲」を使って退治してくれと頼まれたにもかかわらず、尻込みして次々と襲われる整備兵たちを見ながらも何もできなかった彼は失望されるのだった。

東京に戻った彼は街が瓦礫となっており、この空襲によって両親も犠牲になったことを知らされたのだった。ある時、敷島は同様に空襲で親を失った大石典子と出会い、彼女が空襲の最中見知らぬ人から預かった赤ん坊の明子と共に家に泊めてあげるのだった。

やがて敷島は、米軍が戦争中に撒いた機雷の撤去作業の仕事を見つけて生活を少しづつ立て直していく。彼女と赤ん坊と一緒に暮らす姿はまるで一つの普通の家族のように見えるのだが、敷島はその気になれずにいた。

戦争が終わってからも欧米諸国は太平洋(ビキニ環礁)などで核実験を続けており、それはあの海から出現し基地を襲った怪獣へ大きな放射能による影響をもたらしていたのである!

太平洋で放射能を浴びながら少しづつ大きくなっていった怪獣(ゴジラと後で名付ける)は、太平洋を航海する船舶に海難事故を与えるようになった。

そして、その行動範囲が少しづつ日本へ近づいていることが判っていくのである・・。

そしてある日ついに、機雷撤去作業している敷島たちの作業船が日本近くに来たゴジラに遭遇するのである!
敷島たちは回収した機雷や船の機銃を使ってゴジラに抗戦したが、その巨体はあの時とは比べ物にならないほど大きくなっていたのだ。(彼が見た2年前当初は15m程だったのが、今や50m以上になっていた!)

重巡洋艦「高雄」も砲弾で応戦するが、ゴジラの吐いた熱線によってあっという間に撃沈されてしまった。
政府は民衆の混乱を恐れてゴジラのことやゴジラが東京に向かっていることを国民に伏せていたのだが、その巨体は間もなく東京湾に迫っていくのである。

東京湾から上陸したゴジラは品川から銀座へと向かうのだが、それをみた人々全てが自分の観ている光景に目を疑うのである。

戦後まだ間もない東京が、再び(あの米軍機の大群による大きな空襲と同じ様な)被害を受けながら破壊されていった。

人間の僅かな抗戦も効果薄く、ゴジラの吐いた放射能の様な熱線によって国会議事堂も消滅。

敷島は銀座に勤めていた大石典子を探しに行ったが、その努力もむなしく彼女は爆風によって吹き飛ばされてしまったのである。

典子の死を嘆き苦しむ敷島は、ゴジラ打倒の作戦に臨むことになった。

本来本土決戦・B29対策のために設計された高高度迎撃機「震電」が、1機だけ終戦の混乱で忘れ去られていた為に解体処分から免れて残っていたのだ。
しかし、この機体の整備には高度な技能を要するため、敷島は橘を探し頼まなければならなかった。敷島は「震電に爆弾を搭載し特攻して刺し違えてでもゴジラを倒す!」と彼を説得、その覚悟を汲んだ橘は整備を引き受けたのである。

やがてゴジラ掃討作戦が決行される日が来た時、敷島は「こいつと決着するまでは、俺の戦争は終わっていないんだ!」と本当の彼のトラウマが心からが打ち明けられたのだった・・

ゴジラに特攻隊の名誉挽回として突っ込んでいった彼は、見事な決着を得てきたのである・・。

 

今回の作品は「単なる怪獣映画だったわけではない・・」という思い

開戦から3年を経た日本は頼みの連合艦隊も失って敗戦が判ってきた当時、苦し紛れに「特攻隊」という勝敗を決めることでもない無意味な兵の隊を作って優秀で真面目な若者たちを犠牲にしました。(身の上も心配した上層部の考えで・・)

戦争という人類の行為は大昔から続いているものであり、どんなに技術的進歩をしてきたとしても今だに世界の何処かしらで起こっています。

第二次世界大戦・太平洋戦争が終わって、焼け野原になってしまった日本の各都市、東京や広島・長崎も生き残った人々の地道な努力で建て直されていきました。(まるで人体傷の修復のように)

この災いとなった怪獣ゴジラは、何であんなに巨大化して人間を襲ってきたのでしょう・・

人間によって作られた原子爆弾・水素爆弾は、何のために作られたのでしょう・・

核保有国によって太平洋は戦後、何回核実験を行われたのでしょうか・・

地球という惑星の肌は核実験で何度傷つけられているのでしょう・・

地球が一つの生命体であれば、いくらなんでもいい加減怒るのではないでしょうか・・

文明が進んで、産業革命・化学物質の生産による大気汚染と環境破壊も進みました。

戦争で使われる砲弾の爆発煙、核実験で発生した有毒物質は大気中のどこへいくのでしょう・・

近年、世界中で異常な天災が起こってきています。雨が降らない所が洪水になり、水が豊富だった所が干ばつになってしまったり、異常な高温になって山火事が起きたりと、今までの地球環境が変わってしまったかように感じます。

ゴジラという怪物を災害に例えて表現しているかに思える今回の作品、この怪獣のような大きな大きな50m以上の津波が海から押し寄せてきたらどうなるでしょう・・おそらくゴジラが破壊した東京の様な瓦礫化した街となるに違いありません。

人類は地球を何だと思っているのでしょう?自分たちが作ったものだと思っているのでしょうか?

全ての動物・人類も、地球に寄生して生きている生物であるにもかかわらず、宿主である地球を傷つけていることを分かっているのでしょうか・・

我々人類は、実は小さな小さな存在であるということ、解かっているはずなのに・・


現在、人類は科学的にも技術的にもここまで文明が発展して(飛行機や自動車、PCやネットワークなどで)豊かな暮らしが進んできた一方で、その止まらない欲望によって身勝手な行為も進んでいるのです。このままで進めば、やがて必ずその見返りはやってくるはずです・・

世界のトップ、国のトップ、周囲・集団のトップが決める「方針」によって行く末が変わるのです。

以上、今回の作品「ゴジラ-1.0」はこうしたいろいろな深い意味が含まれていたシナリオだったように私には思えたのでした。

もし機会があれば今回の映画作品を鑑賞してみてください。人によりそれぞれの思いが異なると思われますので・・

 


最近の記事(トップページ)

宿命や運命のカテゴリー

生活や出来事カテゴリー

*画像は一部映画のパンフレットから引用しています。