今年になってTVで大きく報道されるようになり、日本中でもアメリカでも絶賛されているメジャーリーグの大谷選手。これだけ騒がれていれば今までメジャーリーグに関心もなかった老年の私でも、さすがに気になる人物となりました。
今回はこの稀にみる人物の存在をもとに、この題である「運(機会)も己の実力」という思いを記しておきたいと思います。
成功や実績を作れる者は優れた身体能力や才能を持っているだけではなく、運(機会)にも恵まれているといえるでしょう!
優れた人を見て、ほとんどの人間が一度は思ったことがある事、それは
「あの人は、すごい人で羨ましいなぁ~!」「それに比べて、今の自分は・・」
人はとかく自分よりも優位な人を見ると、どうしても今の自分との差を考えてしまうもの。
幼い頃は他と比べるなんて余計なことを考えませんが、物心をついた頃から他の人と自分の違いなどに気が付いていきます。
「あの子の家にはブランコやピアノがあるのに、何でうちにはないの?」とか生まれた環境などについて思うようになったりもしますが、それだけではありません。
同い年なのに顔の様相や背の高さ、覚えの良さや足の速さなど、なぜか違いが出てきます。
全ての人間が同じ臓器構造で作られているにも関わらず、そのDNAの微妙な違いによって多少身体・能力が違っていきます。
同じ人間という動物でも、受け継がれたDNAによってそれぞれ違いが出てくるのです。
同じフルーツでもミカンとメロンは異なり、どんなにメロンが羨ましくてもミカンはメロンには決してなれません!
人も同じで、背の高いスマートな人もいれば頭脳の優れた人もいて上手い具合に成功・出世をしていますが、そうでない人はその人をとても羨ましいと思っても決してその人と同じ様にはなれないのです。
そんな当然の事を分かってはいても、それでも今の自分と比べてしまい溜息をついてしまうもの。
しかし一方で、どんなに優れた能力を備わっていても、それを使うことができないという人もいるでしょう。
では同じ優れた能力を持っていながら、それを十分人生に生かせないのはいったい何が違うのでしょうか・・?
それがいわゆる「運も己の持つ実力である!」ということなのです。
まだ男子の髪型がちょんまげであることが正装の時代、江戸時代まではそれこそ今の様に医学も当然に発達していなかったにもかかわらず近代まで生き延び、種の保存を続けられた日本民族という我が人種。
今でこそ1億人を超した人口ですが、当時は2~3千万人だったとしても頻繁に起こる戦(いくさ)によっても、病気によっても亡くなる人数は現代とは比べられない程に多かったことでしょう。
天災や飢饉、戦いや病気で亡くなる人間が多く平均寿命も低かった中で、老化する身体状態まで生き続けられた人は本当に少なかったとは思いますが、その長寿できた要因は体力や能力だけではなかったはずなのです。
近代的文明に入った明治時代から、様々な病気に対する回復薬・方法が作られてきました。
しかし、戦国時代や江戸時代には対処方法も解明されることもなく、多くの人々がコレラや赤痢・結核などの致命率の高い病気で被害にあっていた中でも、誰かしらは病気にかからず生き延びることができたわけです。
水道や下水設備、消毒などの衛生面も不備だった時代でも、それでも絶滅せずに先祖代々生き残ってきた人たちがいたわけですから、今の現代人から考えると不思議なことだと思えます。
誕生から成長までできた人間は子孫を作くることができ、また長い年月を生き延びれた人は体質だけではなく「運」(危険を避けられた多くの機会・タイミング)があったとしか思えません!
どんなに身体的能力・頭脳的能力を持っていたとしても、それを使う機会(チャンス)や流れ(シナリオ)に恵まれなければその力を十分に発揮をすることができません。
逆に、大した能力や実力を持っていなくても、何故か有名人になって大きく成功してしまう人もいます。(芸能人でも特に何もないのにも関わらず、何故か長年売れてる不思議な人がいます・・)
もちろん、その両方(優れた能力と発揮できる機会)に恵まれていれば、大きな誇らしい功績を作ることができ、沢山の人々から称賛されるようになるでしょう。
冒頭にも記した通り、最近日本人として誇らしい活躍をしているメジャーリーグの大谷選手は、恵まれた「身体と能力」そして「運」の全てが備わって見事な人生を開くことができていると思います。
日本人離れした大きな体と身体能力、そしてスポーツ家族に生まれ育つことができた環境(宿命)、能力を発揮できる機会との出会い(運)に恵まれたこと、この全てが上手い具合に重なり合って大きな結果となっているのだと思います!
もし、このうちの何か一つでも欠けていたなら、結果は今の様にはならなかったはずです。
先日のTV番組でも取り上げられていましたが、「運」も不可欠だという意味合いが彼のノートに書いてあった様で、どんなに優れた能力を備えていたとしても機会(チャンス)という「運」に恵まれなければ宝の持ち腐れになってしまうことを、彼は分かっていたのです!(これには驚きました・・)
今までもメジャーリーグで活躍した日本人(野茂、イチロー、松井選手など)が沢山いましたが、今回の彼には今までの日本人選手には無い「何か湧き上がるもの」を感じるのです!
他の者とは違い、優れた身体能力だけではなく日本人(人間)の礼儀や優しさ素直さ(人柄の良さ)を身に着けている「上級魂の化身」みたいな感じを受けるのです。
そして、どうやら彼は「運」というもの作り方も心得ていたようで、「親切にすること」や「ものを大切にする」、「人が嫌がるちょっとした面倒なことも進んでやる」等という様な事をノートに掲げていたみたいでした。
それは、正に人間の煩悩を超越した考えを持っている証のようです!
「人に喜ばれること」「人に感謝されること」「人を楽しませること」「人を助けること」すべて、己の得運に変わっていくことを知っているのです。
先に書いた記(人生はあみだくじの様である)のように、この世をスタート(誕生)する地点(環境や家柄)を選び、その与えられたオリジナルな身体&能力を使って人生旅が始まります。
この与えられた(自ら選んだ)体と性能を使って、生まれてきた目的に向かって進んでいくのです。
みんな全て、生まれてきた目的は違っていて全てがオリジナルになっているので同じものは2つとしてありません。
「ミカンはミカンらしく、メロンはメロンらしく」という当たり前のことですが、人は遭遇する環境や立場の変化によって自分らしさを失ってしまいがちです。
その昔、お祖母ちゃんなどから聞いたことがある言葉だと思いますが、「人は人、自分は自分」という言葉がありました。
また、「隣の芝生は青く見える」という言葉を聞いたことがあると思いますが、隣の家庭が羨ましく思えるたとえになっています。
しかし、羨ましく思える隣の家庭はそれほど満足した生活を得ているわけではないでしょう。必ず何かしらが足りていないはずだからです。
たとえどんなに裕福になっていても、まだその上を見るものであり人の欲望は限りないもの。
上を見ても切りがなく、下を見ても切りがない。銀河からウイルスの大きさまで、大きいものにも切りがなく、小さいものにも切りがないのです。
また、この世の物(地位や財産)は次の別世界へは持っていけないことも心に刻みましょう。
唯一持って逝けるのは、善意の実績(感謝された実績)と、この世界の想い出だけなのですから・・
あまり先のことを心配することはありません。
起こること全て、なすすべなく受けるしかないからです。
自分がどこに生まれどんな境遇を与えられたとしても、それでやるしかありません。
たとえ今の自分がどういう状況になっていても、その生きているうちは(生かされているうちは)できることをやるだけ。
この世界にいる自分は二人として存在していないわけですから、「自分と比べる同じものがない」と悟れば良いのです。
与えられた自分の身体や能力、そして運(機会)を使って生きれるまで生きていけば良いのです!
太平洋戦争中、被弾し沈没した駆逐艦から運良く生還できた人が悟ったことがあったそうです。
その人の意味深い言葉 「生かされている」
「生きている」ではありません・・