高齢者を生き長らせながらも少子高齢化を懸念するという矛盾を想う記




この地球に存在する全ての生物には「老い」という決して逃れられない「定め」があります。誕生して成長を遂げた生物にとって、次に待っているのは「老化」です。

我が国、日本は「少子高齢化」が誰にでも目に見えるほど実感できるようになりました。私も還暦前後の年齢ですが、昼間に走っている車の運転席を見ると老人ばかりです。

国の人口統計や歴史データを見ると、年齢人口や出生記録から100年前と今の現状がはっきりと分かります。昔と今ではこれほど違うのか、本当に驚かされるものです。

老いたものを見捨てない「人間という理性や道徳を持つ生物」は素晴らしいとは思われますが、自然界(DNA)にとっては意味の無い(無駄な、余分な)ことなのかもしれません。

増加し続ける老人を大切にしながらも高齢化問題に悩み、世代交代をせずに少子化を心配しているという矛盾について、今回は考え記しておきたいと思います。

100年前は自然界にとっても適当な値だったかもしれない・・

日本では高齢者が益々増加していく中で、逆に子供の数が益々減少し続けています。医療の発達と生活環境の向上によって、平均寿命も大きく変わったからでしょう。

寿命が延びて世代の交代が長引いてしまった結果、新しい世代が生まれて来ないのかもしれません。

ここで、およそ100年前との比較を見てみましょう。

1920年  人口  5600万人  65歳以上 5%  15歳以下 37%

現在   人口  1億2000万人 65歳以上 30% 15歳以下 12%

総務省統計局より

1920年の人口を単純に現代値と同じ(倍)にしてみても、65歳以上は10%。15歳以下も更に%が多くなるはずですが・・。

合わせて次に、出生率と死亡率も見てみます。

1920年  出生率  36%   普通死亡率 25% 寿命平均 43歳

現代   出生率   8%   普通死亡率 8% 寿命平均 86歳

人口統計局資料より

環境も技術も進化した証が、100年前と比べてみるとはっきりと分かります。たくさん生まれていますが、死亡率も多かったようです。

昔の寿命は現代に比べるとビックリするくらいの年齢になっています!そうとはいえ当時80歳代でも生きていた人はいたと思いますから、それは大変希少な存在だったことでしょう。

子供や若い世代がたくさんいたこの時代の日本は、まさに前途洋々の人口構成だったに違いありませんね。少子高齢化問題などは考えもしなかったことでしょう

そう考えると、現代はこの時代に始まった繁栄がついに飽和状態に達した結果とも考えられます。成長を終えたものは全て老い始めて(衰退)いく定めですから、100年前に戻っていっているのかもしれません。

但し現代と100年前が違うのは、死亡率と寿命でしょう。これから益々医療技術は進化し、高齢者の死亡率を止め続けられるはずです。それによって長く生きられる人間が増えていくわけです。

しかし長く生きられるとはいえ老いた人に出生率は上げられませんので、この現状では次第に人口は半分(1920年代の値)へ向かっていくしかありません。

「古いものよりも新しいもの」が自然界にとって本当に必要なもの

老人の国会議員も多くいる日本の政治界も世代交代の時期が長引いている結果、新しい考えという進化が遅れているのかもしれません。

常に進化している社会の中で、指導者らも新しい考えを持つ世代が必要なのです。パソコンやモバイル端末も駆使できない老人のリーダーが、目覚ましく進化する技術社会に発展する知恵を編み出せるはずがないのです。

ウイルスの拡大をアプリケーション技術によって抑えた台湾の若い技術者を国政に加えたことを、わが国も見習うべきでしょう。デジタル省のトップがアプリも開発できないなんて、国民から信頼を得られるわけがありません。

自然界では、老いて動けなくなったものは獲物を穫れなくなり、いつまでも長く生き永らえてはいません。その分、種の保存も可能な若いものに獲物が行き渡るのです。

古いものがいつまでも存在し増えていけば、次の若い世代に獲物が行き渡らず増えることもできないのです。その結果、国の進化も遅れていくことになります。

いつまでも古いものが存在し、社会を構成していてはいけないのです。古い世代が人口を占領してはいけないということです。

イタリアでパンデミック状態になった時、医療崩壊の中で誰を優先して治療するかという選択を迫められたことがありました。そしてそれが「トリアージ」というものでした。

【治療枠は1つしかありませんが、働き盛りの世代と年金暮らしの高齢者と、どちらを選びますか?】という選択です。

古いものを選ぶよりも新しいものを選ぶのが、誰もが心の中に浮かぶことです。

長生きさせて高齢者を増やしていくにも限界が来る!

先日のこと、またもや知っている小学校の閉鎖が決まったことを知りました。

子供が居ないのです。子供が足りないのです。

近所も、とうとう小学生の列が見えなくなりました。そして長生きの古い人たちばかりになってしまいました。

以前の記した「高校募集人数が毎年1000人づつ減っている!」でも分る通り、15歳以下の人口が毎年のように少なくなっているのです。

 

古いものばかり増えて、新しいものが増やされていません。

1920年のピラミッド型人口統計は、今は逆ピラミッド型に形を形成しつつあります。古いものよりも、新しいものを優先にしていかなければ国家は浸食されていくでしょう!

動けない何もできないものを生き長らせながらも少子高齢化を懸念するという、暗黙の矛盾がそこにはあるのです。

老若問わず人の命は全て平等に守らなければという人間の道徳は「平和」の時代だから言えることです。大げさに言うとすれば、長生きさせる老人ばかりになり果てに全て動けなくなったら、この国は他国に買い取られる可能性も出てくるのです。

古くて動かない車にいつまでも高額な維持費を支出していれば、新しい車をどんどん買うことなどできません。負担になるものを維持し続けるのも、そのうちに必ず限界が来るはずです。

長生きさせるかのように見えるたいして意味の無い薬代に何千億円も歳出しているより、子供を増やすことに歳出するべきであると強く思います。子供を作り育てるのに経済的負担を取り省く政策を考えなければならないのです。

全国民の医療費を3割負担で均一にする代わりに、子供を一人作ると300万円支給や出産医療費を無料、子供手当は増額で18歳(高校卒業)まで支給!

というような、子供を増やしやすくする政策が必要ではないでしょうか・・

古いものは早く去れとは決して言えないことですが、「既に自分では獲物を穫れない存在になった時、世の中にとって大きな負担になっている」というのは、無情でも確かなことなのです。

また別の考えでは、既に古ぼけて動けなくなったものが周りに多大な負担をかけながらも「まだまだ長生きしたい!」と本気で思っているでしょうか。

激しい戦場の野戦病院では、治療後に再び戦闘できる者を優先にします。使えなくなった者は後まわしになるのです。弱肉強食になった世界で生き残るには、理性や道徳など考えている術はないわけです。

古いものを増やすよりも、新しいものを増やすことに優先をおくべきではないでしょうか・・

20年後、30年後、既に私もいないかもしれませんが、奇跡的に子供達の方が老人よりも多くなっているように祈るばかりです・・


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