戴いた幸運の横柄な使い方より、よっぽど「最良の使い方」だと思う記




 

先日、ある記事を読んで「自分にもっと大きな力量があったなら・・

と悔しくさせられたことがありました。

そのレポートとは、不運に置かれいる中で必死な思いで生きている経済的に厳しい家庭の現実を訴えたものでした。

世界の国々から比べて豊かそうに見える我が国.日本ですが、実際には子供たちの食事や制服を満足に与えられない家庭が、思ったより多くいるという現実なのです。

貧しい家庭の子供たちのために、「子供食堂」という救いの食卓があるのは聞いたことがあると思います。

食べることもままならない家庭の子供たちに、食事を与えてあげる支援場所です。

そこには多くの貧しい子供たちが食べにやってきます。

大きく目立つことがない貧困家庭の現実がそこにあるのです。

子供食堂に助けを求めて訪れるということは、よっぽど困っている家庭なのだと推測できます。そこへ訪れることによる「恥ずかしさ」よりも、可愛い子供との「生きること」の方を選ぶ究極があるのです。

ある時、母親と3人の子供たちが訪れてきました。3人の子供たちを養っている母親の所持金は僅か¥200-だったそうです。

アパートの光熱費も滞り、毎日親子で生きていくのが苦しい状況がはっきりと分かります。

病気になった母親は働くこともできず、支援金を受けても借金に消えてしまうため電気もガスも水道も止められてしまいます。

3人の子供たちは、昼の給食だけが命の食事になっていたようです・・。

また、中学の進学に必要な制服や必要具も支援金では足りないため仕方なく中古を探すのですが、なかなか合うサイズが見つからずに用意出来なかったようです。

中学校の入学式に来ない(授業にも来ない)理由は、こういった苦しい生活のために制服が買えなかったからという子供たちがいるのも確かなことなのです。

この現実については「普通に人並みに」新品の制服を買ってもらえ、何事もなく学校に通えた人たちにはその苦しさは解からないでしょう。

一方で、その「子供食堂」など開設している支援団体の現状も厳しいとのこと。

運営していくにも、資金がギリギリで継続していけるかも懸念されているのです。TVやニュースで話題となっていた時は支援金も集まったのですが、その後は徐々に忘れ去られてしまった感じで支援も冷えてしまうのでしょう。

こういう様々な厳しい状況の事を知って すぐに思い浮かぶことは

自分に 「裕福層のような大きな力量があったならば、こういう現在 困ってしまっている部分に補填してあげられるのに・・」

と自分の現実の力量に悔しさを感じてしまうのでした。

また同時に

5億円以上蓄えのある富裕層の人たちは、(普通の生活には一生かかっても使えきれない)お金を持っているのだから、こういった「子供食堂」に訪れてくる家庭の支援に使えばいいのになぁ・・!

と、真剣に思います。

 

貧困家庭に陥った状況は、厳しい運命を与えられてしまったとしか言いようがありません。

その3人の子供たちと訪れた母子家庭の場合、父親が逃げたか又はDVによる離婚によって今の状況に立たされたのかもしれませんが、そういう厳しい運命を強いられてしまったのです。

こういった悲運になってしまったのは、自分の実力とは関係なく与えられてしまったものなのです。

この世界は自分の実力だけでは「幸運か.悲運か」を決められるわけではないと思います。

優秀な才能がある人が幸運な財力を得られるわけでもなく、優秀でもないのに幸運に恵まれ財力を得られている人もいるのです。

与えられた運が良かったのか、事業が大成功して有名にもなり、その莫大な経済力で高価な品物を欲しいだけ得られる境遇の人がいます。

その昔「アメリカ横断ウルトラクイズ」で、MCの福留さんが「運も実力のうち」と言っていましたが、それはその通りだとしても

その与えられた幸運を「困っている人や苦しみもがいている人などの不運な人たち」に分け与えるという行為が思い浮かばない人が多いのではないでしょうか・・

特に日本人はそんな感じがします。かえって裕福でもない人たちの方が、困っている人を助けているのではないでしょうか?

欧米、特にアメリカなんかでは 困っている人をニュースやSNSなどで知ると

すぐさま全米から膨大な救いの手が差し伸べられるようです。

民族性のためなのか、欧米人と違って日本人は物事をはっきりと言いませんので、それに伴って行動も消極的な人格が形成されているのでしょう。

良い事をしたくても、しないままで過ぎてしまうことが今まであったのではないでしょうか?

 

少ない家族数にもかかわらず、何部屋もある「温泉やプール付き豪邸」を建てたり

飾って満足し楽しむだけのスーパーカーを何台も買ったり

凡人には手の届くはずのない価格の美術品を海外から買ってきたり

膨大な費用のかかる「宇宙旅行」の予約をしたり

こんなぜ~んぶ自分のためだけに「幸運によって与えられた財力」を使うなんて

ことはせず、

この莫大な幸運財を、「制服も買えず貧困にあえぐ家庭」に配った方が

よっぽど 運の良い使い方だと思いますけど・・


大きく成功したの多くの人が思っていることは、「自分の力によって成功したのだ!」と

そう勘違いしていると思います。

しかし、真実は 「成功するシナリオ」という運(運命)を与えられたのだと思います。

1990年代に賞を取った映画「フォレストガンプ」に出てくるフォレストのセリフで

ママはいつも言っていた。人間は生きていけるだけのお金があれば十分だって・・

フォレストは事業に大成功しますが、欲が無く 余分な財はすべて寄付してしまいました。

このフォレストガンプと同じように、私にも使いきれない莫大な財(幸運によって与えられたもの)があったならば、すべての困っている(子供食堂に来る様なこういった事情のある)貧困家庭に、贈与税のかからない程度の補填金を配れるのになぁ~!と夢を観たのでした・・

今生の財よりも、永遠の財

おしまいに、

これは私にもはっきりと断言できます!

どんなに私財や財産(お金)があっても、この世でしか使えませんし価値もありません。

でも、この世を離れても持っていけるものとしたら一つ思い浮かびます。

経験した知識(想い)と、感謝された思い(恩情)

この今生で様々な楽しみや苦しみを体験した想い出

人に大きく感謝し、人に大きく感謝されたこと その見えない恩情というもの

両方ともに「大きく価値のある見えない財」だと思います。

 

 


今回は、「せっかく今生で戴いた幸運を自分だけに全て使うよりは、人に感謝される(喜ばれる)という「最良の使い方」をした方が、よっぽど幸運の使い道に相応しいと思う記」という題名にしてありますが、当初は「自分にそのような力量があったならばと悔しく思うことがある記」という題名で考えていました。

記事の題名を決めるのは通常は簡単なのですが、今回は欲張ってしまい結局は変な題名になってしまいました。(私記のこんなページを訪れる人もいないでしょうから問題ないけど・・)