人の安楽死(尊厳死)は「非情」ではなく「情」であると悟るべきの記




この世界に生まれた人の中には、身体的に非常に厳しい状態でも「生きること」を強制させられている人たちがいます。

五体満足の身体を授かっている人ではなく、自らでは動けない不自由な体でも生かされている人たち、その中には「この終わりが訪れるまで気の遠くなるような我慢」を与えられている人も多いのではないでしょうか・・。

我が国では、尊厳死・安楽死は法律で認められてはいません。それによって先の無い動かない体に苦しんでいる人たちは、いつまでもその場から解放されずに苦しみ続けるのです。

今回は、人間の安楽死・尊厳死といわれるものは「非情」ではなく「」であることと悟るべきであるという意味の題で記しておきたいと思います。

ただし、この記は「介助されなければ生きられない苦悩人々」のみを対象としています。

無理に生かしておくのは誰のためなのか・・
先日、あるネット記事「欧州のとある国で尊厳死を認可された日本人」というのを見つけ閲覧してみました。それを読むと人が逝くにもかかわらず、ハッピーエンドの様な印象を受けるものでした。

その若人は子供のころから難病と闘ってきた甲斐もなく、成長するごとに益々症状は悪化し続けました。そして成人を過ぎてからは寝たきり状態になり、ついには一人では何もできなくなりました。

親にも周囲にも介助され続け、このまま長い年月を生き続ける罪悪感と自分の生きがいと目標の立てられない絶望感の中で、果たして生き続ける意味はあるのか・・と 当人だけではなく誰もが思うことでしょう。
そして、この苦しみ状況に縛っているこの体から抜け出たい、早く解放されたい「安楽死・尊厳死」を希望し始めるのが当然な考えだと思います。

悪化していくばかりで、治る方法もない難病。それならば、たとえ若く惜しい歳だとしても早めにその苦しみから解放してあげることも考えるべきなのです。

しかしながら本人の気持ちとは反対に、親や親しい人は「生きていて!」と願うのです。
我が子(本人)が苦しいと訴えているのは分かっていながらも、逝ってほしくない気持ちは十分に分かります。がしかし、それはいったい誰のために無理に生かせておきたいのでしょうか・・。
それはおそらく生き苦しんでいる当人のことよりも、むしろ自分に襲い来る悲しみや寂しさ、辛さから逃れたいという気持ち(恐れ)なのだとも思えます。
「この子と離れたくない、放したくない!」というのは自分のためであり、当人のためではないと悟らねばならないのです。
安楽死を望んでいるほどに、一番苦しんでいるのは当人なのです。
他人事である我が国の「法」は、それでも当人を苦しみからずっと解放してはくれないのでしょうか・・
人の尊厳死を認めない一方で、動物を殺処分している!

この先どうにもならない不自由な身体で無理に生かせておくのは「無慈悲・無情なこと」だと、誰もが考えるはずです。

この先どうにもならない生き末だと分かっていながらも、ただ生かされているいる状態・・それが当人にとって、どれほど虚しく苦しいことか家族でさえ分からないでしょう。
しかし、そんな苦しみながら生きている人を救ってあげよう(解放してあげよう)という行為を手伝ってしまうと、それは犯罪(自殺ほう助)となってしまいます。
以前にもニュースで観たことがありますが、「安楽死を手伝った医師の裁判」にについて賛否が問われるものでした。
わが国では人の安楽死を認可しない一方で、動物の殺処分は毎年のように行われています。人工妊娠中絶も3ヵ月まで認可されているというのは、まだ人間ではなく動物であるという認識なのでしょうか?

また近年は昔と比べて少なくなったとはいえ、殺処分されている捨て犬や野良猫は年に何万匹もいます。犬猫動物を二酸化炭素によって苦痛もなく自然に昏睡状態して安楽死させているとはいえ、生きたいという命を無理に奪っていることは確かです。

鳥や豚の家畜ウイルスから人間を守るために行う殺処分は、致し方ないと思われます。食べるために、そして生き延びるために他の命を奪うことは自然な行いではありますが、食べないのにもかかわらず命を奪うのは人間くらいでしょう。

それは自然界からみても無駄なこと

もちろん、不自由な体でも「生きる目的を持った人たち」はたくさんいます。その人たちは限られた動きを駆使して、何かを編み出せる能力が備わった強き天命(使命)だからかもしれません。

自然界からみると、動物は二度と動けなくなった時点で生の終わり迎えるのが常です。食料を自分で摂取できなければ終わりなのです。
人間も昔は同じでした。文明が発達していった時代から医療技術の進歩によって生き長らえる様になりましたが、その反面で「自然に反して無理に生かされる命」が出てしまいました。
本来は存在できないはずの命が、医学によって存命させられることは喜ぶべき良いことだと思います。しかしながら、動けない身体でただ存命しているだけでは人は生きる意味(意欲)を見出せません

食べ物を自分で取得できる能力、自分で摂取できる身体があってこそ生き延びることができる、それが生物としての基本です。

人間の高度な能力によって先進医療が発達した結果、本来の自然寿命よりも長くなっていきました。しかし、長生きできるようになったとしても、何百年も生き続けられるわけではありません。そしてまた、何百年も生きていたいとも思わないはずです。
身体が動かなくなり食料さえ口に入れられない生物は、自然からみて存続の終わりということです。

でも「人間は違う!」と簡単に主張する人が必ずいるでしょう。けれども、その訴える人は恐らく五体満足の身体で「安楽死までも望む人」の心を理解できていない方かもしれません。

この世に生まれてくる全ての生物は、「種の存続・進化」が目的です。ウイルスでさえDNA・RNAを増やし、どうにかいつまでも存続をしようとします。人間も同じで、種の保存・存続のために生まれてくるだけです。
動けない動物や「種の保存リレー」ができないものは、自然(DNA)からみれば無駄な存在なのでしょう。人間のように「幸せな人生を得る目的」や「希望を叶える人生」などというのは、自然(DNA)にとっては まるで必要ないことです。
自然界の望みはただ一つ、人間という生物の種の保存と進化だけであり、そのために生と死の役(サイクル)があるのです。
安楽死は尊厳死である!
先に記した、とある欧州国から安楽死を認められた、身体が不自由なある日本の若者は「これでやっと苦痛から解放されることになりました!」と語ったそうです。何年もずっと願っていたことが、やっと叶うと喜んだのです。

その気持ちは、下のように例えてみると理解し易いでしょう。

手足をベッドで縛られて動けない状態ですが、食料は毎日食べさせてもらえます。排せつ等の処理も全てやってもらえます。自分では何もできません。それが歳を取って老いて亡くなるまで、何十年もの間ずっと続きます。

この様な状態の生き方を人間も動物も果たして耐えられるでしょうか・・
それでも親しい人たちは「生きていて!」と言うでしょうけれども、当人の立場になったらどうでしょうか・・
きっとあの若者と同じことを考えるはずです。
人の尊厳」とは、人のかけがえのない価値として大切にすること、と 辞書にあります。
その苦悩を訴えている人を尊重して、その望みを認めてあげることが「尊厳死」の意味だと思います。安らかに逝かせてあげる「安楽死」は、苦しい縛りから解放してあげるという意味だと思うのです。

苦しんでいる人を救ってあげることは、人として当然のことになっているはずです。身動きができない苦悩の毎日から放たれたい人の助けをすれば「」などではなく、むしろ「感謝」ではないでしょうか。

人の安楽死は決して「非情」ではなく、人の尊厳という意味を持った「」だと悟るべきなのです。


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