魂に男も女もなく「今回はその性(体)で生まれてきただけ」と思う記




少し前のことですがドラマ「麒麟が来る」を観た時のこと、主人公の明智光秀が戦で生死を彷徨っていた時、光秀の妻は(土砂降りの中)お百度参りをしながら必死に夫のことを祈っていた場面がありました。

その場面を観ていた時にふと脳裏に、何故か「心・魂に男も女もない」という想い(直観)が浮かびました。何故その場面でそんな言葉が浮かんできたのかは分からないのですが、この今回の記を綴るきっかけとなったことには違いありません。

魂には男も女もなく、今のこの人生はその性(体)で生まれてきただけという、亡き祖母も考えそうな記を今回は綴っておきたいと思います。

男女平等という概念は平和の証
近代になって「男女平等という概念」が出てきましたが、その昔は力が弱く小ぶりの女性は男性よりも劣るとして平等には扱ってもらえない立場でした。
しかしその代わりに、男は戦争になると出て行かなければなりませんでした。領土を侵す脅威のものからファミリーを守らなければなりません。自然界の動物も同じことをやっているのは今でも変わってはいないでしょう。
この「男女平等という概念」は、平和の時代だからこそ存在できるのかもしれません。それはいざ戦争という事態になった時に崩れるはずです。おそらく戦争になれば間違いなく「男女平等」とはいかず、男性が主に戦場へ送られることになるだろうからです。
真の男女平等ならば、女性も戦場へ行かねければなりません。男も女も半分づつ平等にです。しかし、保守的な考えの脳を持った女性は戦場へなど行きたがらないでしょう。おそらく男が行くべきだと言うでしょう。その時点で男女平等ではなくなってしまうのです。

男なんだから、女なんだから、などという性別差別はいけないという男女平等の考えは平和な時代の象徴なのです。力の弱い女性が平等を訴えることのできる、平和な時代だということです。

男も女も同じ種類の生物
社会を見てみると、悪い考えが浮かぶ人間は「男」ばかりではありません。比率的には少なくとも「女」も悪い考えを浮かばせて犯罪を犯す者がいます。悪いことを犯すことに男も女もありません。

幼児の頃までは男女という隔たりがないようでも、青年になるにつれて考えさえも異なっていきます。性別ホルモンによって身体も考えも違ってくるように出来ています。

「男の体に生まれてくること、女の体に生まれてくること」、身体的に備わるホルモンや臓器には若干の違いは出てきますが、同じ人間の体に生まれてくることには変わりはありません。

これは歳を重ね様々な年月を経験していく中で分かってくることでしょうけれども、「思い(魂)」は人として男も女も一緒だということなのです。

ただ肉体と言う乗り物が男や女というだけであり、心・精神(魂)には男や女は存在しないということです。

怒る時も、喜ぶ時も、悲しむ時もみんな同じ思いであり、そこに男女の差はなく同じ「心」があるだけです。

その証拠に年配者になってくれば、妻や夫はすでに家族であり既に男や女の関係ではなくなっているでしょう。いつしか」のある家族愛に変わっているのです。そこには男も女もなく、あるのは「愛と情」という魂(心)のみです。

助け合う魂の縁

人として生まれて来るには男か女のどちらかの体を選んでくるわけですが、それは偶然ではないように思えます。

それは乗り物にも例えられます。様々な乗り物がありますが、それぞれ乗り物によって能力が違っているのです。これに乗れば何ができるからという目的で購入するはずです。

例えば、単にドライブや買い物するためならば乗用車を買って乗れば良いでしょう。トラックならばたくさんの荷物を運べるわけですが、ドライブには向きません。バスは多くの人たちを乗せることができますが、買い物に行くには適しません。バイクは狭いところでも通れますが、雨や雪には困ります。

魂も同じような感じで、どんな目的で体を選ぶかを決めてくると思うのです。生まれてくる目的(役)をするために、その身体(能力)を決めるのです。

こんな実話があります。

昔、視力の弱い女性がいました。太平洋戦争が終わりの頃、身ごもったその女性の相手は祖国に戻っていきました。

残された女性は女の子を生みますが、だんだんと目は見えなくなっていました。頼りのお爺さん(父)も間もなく世を去り、その子との二人きりで生きていかなければなりませんでした。

どうにか中学を出ることができた娘は、目の見えない母のために一生懸命働いた末、立派な一軒家を建ててくれました。その子は盲目となる女性の助け人として生まれて来てくれたのでした。

実はその助け人としてこの世に生まれた娘は、私の母となった人でした。

私が生まれたのも一つの理由ではありますが、様々な状況があって母はとして生まれなければなりませんでした。様々な要因によって、女でなければその境遇(試練)に対処できなかったのです。

女だからできたこと、男だからできること、それぞれ目的があってその性を選ぶのでしょう。

助けるために生まれてくる魂(心)には、もともと性別などなかったのです。

心(魂)・思い(気持ち)に、男も女もない
自分は今回、男の体で生まれてきた。女の体で生まれてきた。どちらにしても、何かの理由(役目)があって来たと思える時があるかもしれません。
男の様な性格(考え方)の女性もいます。女性の様な考え方(性格)の男もいます。
また、その心や考え方が生まれ持った性別とは異なっているという「性同一性障害」という概念も近代になって世界的に知られるようになりました。
本当は男の体で生まれるつもりだった、女の体で生まれるわけだったという不具合が起こってしまったのでしょうけれども、体は間違ってしまってもその魂(心)が持ってきた目的(役)は変わらないはずだと思います。
スタートが間違っていたとしても、もしかしたらそれも今生のシナリオ(試練・課題)のひとつなのかもしれません。
自分の魂(心や思い)の前世は、男だった時もあるでしょうし、女だった時もあるかもしれません。男女という身体は進化した世継ぎを作るための道具であり、幼児と老人は男女という役目はなく 人としての役だけです。
男性でも女性でも、人に対して優しい考えを持つ人は同じ心(魂・思い)の持ち主であり、そこに性別は必要ありません。

魂(心・思い)には男も女もなく、この人生はその性(体)で生まれてきた役目があったのです。

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