「それでも生きていく志を持つ人たち」は、魂のレベルが違うと思う記




不運としか思えない厳しい試練を与えられ、毎日が苦しい生活になってしまっているとしても「それでも生き続けていく志を持つ人たち」は、魂のレベルが違うのだろうと思うのです。

以前にも綴った記の続編の様な感じになりますが、これは厳しい世の情勢となっている今こそ記しておきたい綴りなのです。

 

この世に生まれた限りには・・」という、昔どこかの歌詞にあった気がしますが、どんな生物も誕生したからには「その身の最後まで使い生き抜くこと」が自然です。

しかし、人間だけは違います。

授かった身が五体満足でありながらも、人生の途中で自ら終わりを決めてしまうことができる唯一の生物です。

幼い時には決して無いことですが、物心をついた年頃から人は「特殊な生物(人間)」になっていき、その「心・思い」によって自らの命をも自由にできる存在になります。

 

生き続けるのも、続けないのも自ら決められる生物・人間は、自然の中ではDNA(種の存続と繁栄)に逆らう反逆者みたいなものでしょう。

 

「生きるのが辛くなったこと、生き続けることを断念すること」

この思いと感情によって人間は自らの身を戒め、その鼓動の動きを無理に停止させることができます。それが戦国時代からもある自害といわれる行為です。

 

一方で、この行為の決断とは逆に「それでも生きる!」決断するを保った人もたくさんいます。

 

 

どんなに辛くとも生きることを諦めない人たち

 

 

先日も新聞記事に載っていたものですが、今まで20年間もベッドに横になって生き続けているALS(筋萎縮性側索硬化症)を患った男性とそれを支えている家族の模様が書かれていました。国内に5~6千人ほど患っている方がいる難病ですが、筋ジストロフィーとは病性が異なります。

 

「生きているのか、生かされているのか」と考えると「生かされている方」だと思われますが、今では僅かに動く顎の動作を使ってパソコンに入力しコミュニケーションをとれているそうですので、家族の願いと同じく「それでも生きる」ことをしているのです。

 

自然界では先天性の原因や病気などによって動けなくなった生物は生きてはいられないのが常ですが、人間界では治療で救い介助し生かせ続ける技術もあります。(これも自然に逆らっている感じですが)

 

独り身であれば自然のごとく終わりを迎えるでしょうけれども、家族がいれば「生きていて!」や「生きなければ」という葛藤によって「生き長らえる理由」も変わっていくのです。

 

毎日の生活がどんなに辛くとも、生き続けている人たちがいます。先に何か明るい希望が見えるわけでなくとも、それでも生きることを続けています。

 

事故や病気によって手足を失ってしまった人、目が見えなくなった人、耳が聞こえなくなったり口が利けなくなった人、人工透析になった人、心臓にペースメーカーを使用している人など、自らの身体に試練を与えられて不自由になっていても生きているのです。

このように五体満足ではない不自由な体で生き続ける人たちは、社会的にどんなに立派な立場の人よりも、経済的にどんなに裕福な生活ができる人たちよりも、きっとレベルの高い「魂・志」を備えているのではと思えます。

 

経済的にも厳しい試練を与えられているにもかかわらず、生き続けることを諦めない人たちがいます。

 

今年の様なこの厳しい情勢の中、会社が倒産し負債を抱えてしまったり業界の不景気によって仕事を失ったり、それらの影響によって借金が増えていき公共料金や家賃が滞ったり、子供の教育費や給食費も支払えなくなった人たちが沢山いるのです。

 

この様な経済的な原因によって、たとえホームレスになったとしても生き続けることを諦めない人たちは、どんな裕福な人たちよりも剛健な「魂・志」を持って生まれてきたに違いないとさえ思えます。

 

どんなに厳しく険しい試練が降りかかってきても、この身の最後まで生き続けることを諦めない力(志)は、持って生まれた魂(精神・意識体)が違うのかもしれません!

 

何も問題が起こらない生活は平穏・安全あるが、試練もなく学びもなく退屈なもの

 

この世界に誕生して、ずっと平穏無事に何も問題が起こらない裕福な生活で、そのまま最後まで送れることは誰もが思うことです。

 

生まれて子供の頃は大きな体験は不要かもしれませんが、成長するにしたがって様々な体験をしたい欲望が出てきます。難しい壁を越える体験は「生まれてきた意味」や「自身の向上」を実感することができる、この世の唯一の土産物になるのだと思えます。

 

与えられた試練を克服することができる自分物語をやっているとすれば、それには深い意味があり、この世に現れた目的の一つでもあるのだとも思えます。

 

しかし、険しい山を登った時の達成感と素晴らしい光景を観る体験は、平凡では得られません。新たな試練を乗り越える体験だからこそ得ることのできるものです。

 

心・精神は身体を持って体感が味わえ、苦しさも喜びも得られます

 

 

「それでも生きる!」は 己に与えられた「力量の力試し」

 

「生きるために、生き残るために」を常に諦めずに進んでいる人たちは、全てレベルの高い称賛するべき人たちなのかもしれません。

 

今現在、厳しい試練の生活を強いられる人たちは、現実的に外から見ると大変そうに映るものですが、逆に平凡に生活できている我々よりも何倍もレベルが高い魂・精神の化身なのかもしれないのです。

 

ちょっとした事で生きることを止めてしまう人間とは、そもそも経験(年輪レベル)が違うのではないかと思うのです。

 

「生きること」は、運よく自分に与えられた体験の場であり、喜びも悲しみも快感も苦痛も全て肉体が使えている間だけの貴重なもの

 

この世界で平凡な我々に比べ、より厳しい試練の中でも負けずに生き続けている人たちは、きっとずっと上のレベルから降りてきた人たちなのです!

 

また他に考えられるのは、おそらく前に自害をして大きな後悔を経験したことがある魂(意識・精神)の持ち主が、再チャレンジを与えられた今生に「自害」という自らの(人生強制終了)考えを二度と起こさない決意を持ってきたのかもしれません。

 

なんとしても「できるだけ生き続けること」は、全ての生物にとって生まれた限りの共通の基本目的であり使命なのです。

 

我々よりもずっと辛く厳しい立場で生き続け、そしてその困難を乗り越えていく人たちは、我々には到底及ばないレベルの人たちなのだと思えるのです。