魂という名の意識体というものを想う




[ 魂という名の意識体 ]

 

自分の魂と自分の人体は違う。という内容の文献は多くあります。

魂は意識体であり、生身の身体は例えるなら車みたいなものになる。

人は車の中で、その運転をし 車は動く

考え、記憶、理性など 脳によって左右される以外に

その奥に、自分ではないような 意識体が入っている

証明できるものではない何か奥にある真髄

無意識に行われる、作用するもの

それは脳の記憶組織の中のものではない、それを超えた意識

自分では気がつかない無意識の中にあるもの

それが魂と呼ばれる物体ではない意識という何か

すべてを解っているもの

過去も、現在も、この先の未来も知っている

だから、無意識に 生身の人間を考えさせることなく

そこへ向かわせ、それをやらせ 行わせる。

無性に整理しようと思うようになったり

そこへ行きたいと思ったり、それをやりたい それが欲しい

無意識にそうゆうふうにさせる魂という意識体である。

そこには、意味が必ずあり それは

後になってから解るものであろう。

昔のことなのだが、もうすでにこの世にはいない 古くからの友人のこと

彼は亡くなる前の半年間、とにかく整理することが多かった。

庭をきれいにしたり、自家用車を処分したり、友人らに贈り物を送ったり。

まるで、亡くなることが判っていたかのような感じだった。

しかし、余命を宣告されていたわけでもなく

何かの病気で入院していたわけでもなかった。

亡くなった原因は、突然の心臓発作のようであった。

魂という名前の意識体は彼に、無意識に「かたずけ」をさせたようである。

希望しても亡くなれない人、希望してないのに亡くなってしまう人

自分ではどうすることもできない、そこには何か定められたものが

あるのではと思わせます。

現代の人は、目に見えたり耳に聞こえたり、肌で感じたり、臭いを感じたりと
五感で体感したりしないと証明とならずに、認められません。

しかし、人知を超えたものは必ずあるのでしょう。広大な宇宙の存在が
あることなのですから。

 

「一滴の存在」

私が想うに、水に例えていうならば、我々は一滴の存在なのであろう。

体にその一滴が入っているということである。

その一滴は、体から離れた後は、元の大きな水へと帰っていくのでしょう。

数奇な体験から、執筆された書籍を出されている彗星探索家の木内鶴彦氏も

同じようなことを語っておられました。

我々ひとつひとつの意識体は、体を離れた後に元々の大きな意識体へ

合流し混ざっていきます。

ですから、全ては自分であり、隣の人間も他人だった人も

すべて自分と同じものである。

すべての人は、この大きな意識体から一滴として出てきたものであり

そして時を経て、再びこの大きな意識体へと戻って混ざっていくのです。

 

「アカシックレコード」というものが納得させる。

 

昔のことですが、エドガーケイシーという人物の体験記を観たことがありました。

広大な意識体へのコンタクトをすることから、全てのことが解るという能力

を持っている人物だったそうで、病に苦しんでいる人々に的確な助言をして

確実に治癒させていたということでした。

能力がある人、知恵のある人、発明力のある人などのあらゆる力が

広大な意識体へ戻って混ざっていくならば、その意識体は

全てを知っていることになるのでしょう。