序章・老老介護時代、40年前の家族に支援を委ねられた定め!

はじめに、

この記は、本題となる第一回へと繋がっていくものですが
その前に序章として、長々とその本題に至る経緯を記しているものです。

 
老老介護時代、40年前の家族に支援を委ねられた定めとは・・

私も中高年の歳を迎え、まだ寿命の残っている高齢化した自分の身内を
面倒みなければならない、いわゆる「老人が老人を介護する状況」に
入っていくことを次第に実感していくのです・・

*    *    *

今から、何年か前のことです。

ある時、市役所の福祉課より留守録が入っていました。

「OOOOさんという方の事でご連絡致しました。
お時間のある時に、ご連絡お願い致します・・」

との伝言を聞いた私は、事情を聴くため連絡しました。

我父とは、40年前までは家族だったのです。
40年前に父は家を出て行き、我母とは離別となったのでした。

この事情については、別記「父の存在意味」というページで
綴っておりますので今回は省略しますが、福祉課の担当によると
近所の民生委員から「OOさんの様態が悪い」と一報が入ったと。
身寄りの方に、とりあえずは連絡しておこうとするものでした。

日本国の法律では、離別した配偶者には該当しないのですが、
血の繋がりがある子孫には、親が離別しても関係は残るのです。

よく、親が離別してから全く疎遠になり、それこそ何十年もの間
会ってもいない一方の親が亡くなり、連絡が役所からきた等ありますが
私の場合、我子を見せに行ったこともありましたので
疎遠というわけではないですが、一般的な家族というものでもない
という捉え方をしていた関係でした。

数日後、私は我父宅に様子を伺いに行きますと
ちょうど地域の統括センター員が来ていまして、お互いが「どちら様ですか?」
と声を重ねてしまったものでした。

とりあえず状態を聴くと、「5日位前から、腰から下が動かなくなった!」
「今日は、その時よりは少し良い」とのことで、おそらく脳梗塞関係かもと
自分ではそう思ったのでした。

父の住居は、今でもまだ各地に見られる昭和時代に多く建てられた平屋の
一軒家アパートですが、あまり家の中に入れられたこともなかったので
今回家の中へ入って、その酷い室内状態を知ったのです。

しかしまだこの時は、その本当の酷さを知ることになるとは
思いもしていませんでした・・


この状態だと、もはや独りでは生活は不可能と判断され
「介護認定」を受ける手続きを勧められます。

今まで独りで生活してきた父ですが、とうとう「老い」を身にしみる時が
訪れたのです。

人間、足腰がまだ使えるうちは、自分で買物も行けますので
食べ物を得ることができます。
特に交友関係もない父でも、食べ物さえ得られれば友達や家族が
居なくとも生きてこれました。

しかし今回、足腰が動かなくなった状態に身につまされた父は
「俺は今まで独りで生きてきたんだ!」という誇りに似た想いを
打ち消される出来事に、「終り」を感じたのかもしれません。

数日後、少し動きが回復したので、介護手続きをする上で必要な
医師の診断を受けさせる為、病院へ連れて行くことになりました。

杖をついて恐る恐る歩くその父は、まさに介護が必要な老人の姿でした。

「歳を取ると、みんなこうなるのだ!」と この時
どこからともなく、亡きお祖母ちゃんの言葉が聴こえたような気がします・・

介護申請の手続き書類などの記入を済ませた後、地域の統括センター員の
細かな手配のお陰によって、速やかに認定を受けられたのでした。

私と父との事情を知ったセンターの方に
「いろいろと手続きや介護用具など揃えて頂き、すいません!」
と 逆にお礼を言われました。

おそらく、子供の頃に離別により捨てられた感じの関係を知って
私に言ってきたのでしょう。

「確かに見捨てられた子供と同じで、40年前の家族でなのですが
疎遠というわけでもなかったし、血のつながりはあるのですから
手続きくらいはしてあげないと・・」
と私が答えます。

季節は、厳しい寒さに入って年の暮れ

買い出しに行けない父には、食料の支援が必要となりますが
私も年末年始に、毎日行けるわけではありません。

センターの方が、数日後に連絡をしてきました。
「3日前からあまり食べていないようです。水分も摂っていないようで
年末年始は見に来れなく、危険を感じますので一時的に施設に入れます!」
と、空きがある施設を探してくれていたのです。

介護認定もまだ結果が出ていないのに、介護レベル4と5しか
受け入れない介護施設への一時入居に入れたなんて、不思議に思いましたが
こういうところは父の強運が発揮されたんでしょうか・・

とりあえず、あんな酷い部屋で年を越すよりも
綺麗な部屋で、3食お風呂付きですから安心だとホッとしたのです。

しかし父は、おそらく40年もの間、一度も他で泊った経験がない
眠れない体験だろうと私は思っていました。


それから年が明けて、月日は経過・・

当初、年末年始2週間ほどという施設への予定でしたが
まだ帰宅しても、自分では生活することが難しいとの判断で
滞在が延長になっていきます。

そして、年末に受けた介護認定の結果が出ます。
認定結果: 介護レベル4
介護施設に入居できるレベルでしたので、これもホッとしたのです。

父が入所後、やはり初めのうちは外泊初体験を慣れない為なのか
食も進まなく気力もなかった様でしたが、暫くして
しだいに施設に慣れていったようで「食も進み、体力も戻ってきましたよ!」
と連絡が入ります。

年末に認定を受けた頃は、今にも亡くなる程の状態でしたが
センター員の助けによって極寒の冬を逃れられ、父は救われたのです。

布団で寝ず、コタツで寝る生活だった為か施設の検査では、
低温火傷が、下半身に12か所もありましたよ!」
と判明したそうです。

後から感じたのですが、あの年末に父はこんな体では「もう終ろう・・
と決めて、差し入れの食糧などを口にしなかったのではないかと
そう私は感じておりました。


介護施設のベッドは快適リクライニング式でした!

介護レベル4の結果も出たためか、施設の滞在期間は延長を繰り返し
気がつけば2月中旬に入っていました。

施設料金の請求もあるため、私は入居先へ呼ばれていくことになります。

レベル4で入居可能な施設といえ、無料ではありません。
個別部屋のためか、1カ月の入居負担額は大きかったのです。
食費やおむつ代、洗濯など雑費を含めば月15万円になります。

これでは父の年金額がすべて消えていきますので、アパート代は
支払えなくなってしまうのです。

「どうしますか? こちらに住みますか?帰りますか?」

施設の担当の方は、どちらでも良いとのことですが

快適さを味わってしまった父は、ここに居てもアパートは引き払わないと
「元気になったら、帰るところが無くなるだろ!」と言い出します。

両方は払えませんよ!どちらかに決めないと!」

誰のお陰で生きてこれたのか、解っていません!
年金を掛けた年数分は、とっくに得ている計算であり
胸を張って得られる年月は終わっているはずなのに、
この人は、どこまで考えが甘いんだろうと思いました。

ともあれ、このおめでたい考えの父を面倒みていくのは
ここのヘルパーさんらの助けが必要になり、委ねるしかありません。

快適な施設の生活によって、体力も回復していったので
独りで杖を使って歩ける状態になれば、アパートでのヘルパー支援で
大丈夫のようです。

それと、決めの理由となったもう1つは
ここの移住者のほとんどが、痴呆症状の状態であるため
「俺はまだここの連中とは違うんだよ!」と思っていたのです。

「それでは、もう少し暖かくなったら家に戻ることで良いでしょうか?」

「一応その予定でリハビリを頑張りましょう!」

という結論で、春になる3~4月にはアパートへ戻ることに・・

が、  しかし・・

アパートへ帰るにも、大きな問題がありました。

まだ、この家の本当の恐ろしさを知らない!

あの酷い状態の部屋に戻ったら、また同じ状態になりますし
ヘルパーさんらも通いたくないと訴えてくるでしょう!

年末に部屋へ入った時、その酷さに気づきましたが
家の中なのに外の方が綺麗と思えるくらいに
恐ろしく汚い状態なのです!
犬や猫も飼っていた原因もあるせいか、臭いも凄いものです。

センターの方や認定員も、室内の異様さに顔をこわばせて
マスクを付けて入っていました。

それを解っているかのように、父も数回手続きに訪れた
センターの人に「土足でいいよ!俺もそうだし・・
と言っていましたから、当然私も靴は脱ぎませんでした。

見るからに汚いコタツで、中を覗くのも怖いくらいでしたが
父は平気でコタツへ入っているのでした。
靴を横に置いて。

アメリカみたいだね!家の中でも土足なんて・・

と、単に汚い部屋だと思っていた私は、まだこの時
これだけでは済まない本当の恐ろしさがあることを知らなかったのです!

そして、ここから苦闘記を綴る第一回へ繋がっていくのです・・

(*長々と経緯を記していましたが、本題は次の回からとなります!)

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