「自らを害してこの現実世界から己の体が消えても、決してその心の傷(執着心)からは逃げられるものではないと思う記」という題で今回は綴っておきたいと思います。
この広い人間世界では、何処かで毎日「生と死」が繰り返されています。生は始まりで希望として明るいイメージですが、死は逆に終わりという暗いイメージになっています。
人生も一つの旅と同じ様に「短い旅」も「長い旅」も多種多様で、どれが良いとか悪いとかはありません。ただし、旅の途中で自ら中止して帰ってしまう場合ほど惜しい事はありません。
致し方のない私情により自ら突然中止したとしても、旅の計画(人生旅行)を最後まで完遂出来なかったという「無念さ」は必ず心に刻まれます。そして、その執着心に縛られてしまうのです。
全ての「無念を抱いた心」を持つ人は再び同じ様な次の旅(人生)を望みますが、あの旅(人生)と同じものはもうできません。一緒に旅していた人(家族)や仲間(友人)も、旅の内容(コース)も全てもうありません。二度と同じ旅(人生)は出来ないのです。
長年この世に生かされていると、移り変わる長い年月の間には自分の親族や親しい友人などが亡くなってしまうという悲しい体験をするものです。
今ではもう随分と昔の話ですが、社会人になって初めてできた親友はその7年後に突発性の病気でこの世を去ってしまいました。また翌年には育て親の祖母を見取りました。
そして尚且つ、(今でも信じられませんが)中学生からの長い付き合いだった友人も先に逝きました。彼は長年精神的な病に苦しんでいて、時には自害を望んだものでした。しかし、その最後は自害でなく病気だった為、そのことだけが幸いであったと思っております。
自害ではないということは、彼は「その寿命(今生の物語)を全うした」ということだからです。
彼は生前に私に問うことがありました。
「自害したら、この苦しみから逃れられるのかなぁ?」
「また振り出しに戻されるだけだよ!」と、その時 私は答えました。
「そうなんだよな・・」と彼はつぶやくのでした。
それまでに何度も自ら逝こうとしたことがある彼は、既に何かを解かっていたのだと思います。
人はこの現実の世界から抜け出れば、この苦悩から逃れられると思っているのが常です。
しかし、肉体を失っても「心(思い)」は続くのです。
「考える」「思う」などは、脳細胞があるからだと科学的にいう人もいますが、心(思い)に細胞組織は必要ありません。今時点ではそれを証明する方法はありませんが、予知夢を観た私にはそれが断定できる体験だったからです。(先に起こる事を予め夢で経験したこと)
もし、物質である脳細胞が思考の全てだとすれば、先に起きる出来事を知ることなど不可能でしょう。目には見えない「心・思い」は物質ではありませんので絵に描くこともできませんが、あることは確かです。
それは、「空気」や「電波」「匂い」「温度」等の目には見えないが存在の証明されている物質とは全く別次元のものです。
物質である体(細胞)は燃焼・分解によって、最終的には炭素になっていきます。しかし、心(思い)は細胞という物質ではありませんので消えずに残るということです。
「心・思い」は永遠に積み重なっていく記録だと思います。その昔にエドガーケーシーという人が言っていた「アカシックレコード」は、そのことを示しています。
様々な体験(経験)は、その良い事も悪いことも記録となって積まれていきます。喜びや幸せ感も、逆に後悔や無念さも全て「心・思い」の記録に残っていくのです。
「命は自分だけのものではない!」と、映画「クラウド・アトラス」のシナリオで出てきた言葉ですが、他人の命も自分の命も皆同じであるという意味にもなります。
自分の命を害することは、他人の命を害することと同じだという事です。
いづれ帰る大きな命の塊りは、それぞれ我々一滴一滴の命の集まりから出来ている
と死亡経験者が語っています。(以前の綴りを参照)
それぞれの雫(意識体)の中の一滴が自分という「心・思い」になって、この世界にやって来たのです。
寿命によって卒業する終わり方ではなく、途中で自ら幕を降ろして終わりにすることは、
その原因に執着し「心・思い」をそこに縛り付ける結果となります。
先に記したように、同じ物語(人生)には二度と戻れません。
ゲームの様にリセットボタンで同じゲームがセーブしていた途中からやり直せれば良いのですが、現実の世界ではそれができません。
自分の体は既に灰になって、この現実世界からは消えてしまったのです。もうこの世界では誰にも自分存在が見えないのです。
ただし無念に自ら逝った者は、心(思い)の執着心だけがその場所に漂っているでしょう。現実の世界であっても誰にも存在の見えない、心(思い)だけの存在です。
その時、我に返り「永遠に取り返しがつかない事」に激しい後悔が襲ってくるのです。
今生の終わり方がたとえ自害であったとしても、致し方のない何も後悔など無い今生の締めくくりであるならば、執着心に縛られることはないかもしれません。
またそれが今生の運命によって自害せざる負えない人生だったという人もいるでしょう。たとえば、逝きたくはないにもかかわらず、敗戦の末に自害を迫られた戦国時代の大名など。
果たしてそれが今生のシナリオだったかどうかは、逝った後に判るのだと思います。今生に果たせなかった無念さや執着心が残っていなければ、その場所に縛られなくとも良いのです。
そして、次の新しいシナリオ(人生)で再出発しようとするはずでしょう。
無念さ、後悔、執着心に縛られなければ、また新しい物語が始められるのです!
余談(追記)
ここからは余談として記しておくものです。今回は自害しても執着心からは逃げられないという題で綴ったものの、本当(真実)は実際に己の体から離れて客観的に視ないと分からない事だとも思っています。
これまでにも他に様々な精神的な記を綴ってきてもやはり腑に落ちないのは、運命や人生シナリオを予め持って生まれてきた者が、その行き詰ってしまう運命によって「自ら人生を終わらせざる負えないというシナリオ」をわざわざ作ってくるだろうか?ということです。
「何かを果たす、何かを乗り越える、何かを学ぶ」その目的を持って来た今生のはずですから、自ら「乗り越えられない壁(試練)」を作って来るはずはないと思うのです。
しかし実際は、多くの人が毎年のごとく乗り越えられない壁(試練)に負けてしまい、自ら逝っています。
一方で今生の間、自害することもなく自らの寿命(事故や病気)を全うできる人がいますが、もしかしたらそれは単なる運というものではなく「何かしらの経験を得た証」を持った者なのかもしれません。