子供の虐待と躾の因果を想う それは昔からあったことだと・・

虐待と因果を想う

可愛い幼い子供の「虐待」という事件が報道される近年

この「虐待」というものは、今になって多く発生しているわけではないと想いました。

今までは報道されていなかった、または知られていなかっただけであって

我々の知らなかった昔から、それはきっと存在していたのだと想います。

今では遠い昔、昭和40年代のことです。

まだ高度成長期だった昭和時代に、私の親は住み慣れた土地を離れ

遠く離れた町の小さな1戸建が並ぶ団地に、家を購入しました。

当時はサラリーマンの月給が、まだ1万円~2万円だった頃

小さな2階建て1軒家の価格は、およそ200万円ぐらいだったと聞いています。

当然、分割で購入したと思いますが、幼かった私が覚えているのは

家と家の間は狭く、竹で作られた仕切りが隣同士の境界線だったことと

家の前の私道は、まだ舗装されていない状態だったことです。

そこの団地には、たくさんの子供たちが住んでいました。

そして、夕方まで子供達の遊ぶ声が聞こえていました。

私の両親は、悪い事をすると普通の叱り方だったのですが、

同じ団地内に住む子供の中でも、今でいう虐待のような親からのしつけを

受けていた子供も少なくはなかったと思います。

夜となく昼となく、小さい子供の泣き声は聞こえていました。

友達の一人もそんな感じでした。

そして、後で知ったことになりますが、虐待らしきことを受け

実際に亡くなってしまった友達もいたように思い起こします。

死因は、階段から落ちたこととなっていましたが

日頃から、その子は叱られ方が酷かったと記憶に薄く残っていました。

今の様に、親が疑われる時代とは異なっていましたので

深く調査もされてはいなかったのでしょう。

別の子供たちも、よく「親が怖い!」と言っていたのも多かった気がします。

親といえ、人間という生物である以上 理性では抑えきれない行動が起きるのでしょう。

また、自分の子供を戒めるようになるのも

そこには深い何か因果関係があるのかもしれません。

まだ力の弱い子供の唯一の武器は、可愛い姿形です。

その可愛い姿形のわが子を、傷跡がはっきり解るほど戒めることができる親は

そこまでしてしまう何かの深い意味があるのかもしれないと、

どうしても私は思ってしまうのです。

報道などで写真が出ると「こんな可愛い子を、よくできるなぁ!」と思います。

連行される人を見て、どんな気持ちで戒めていたのだろうかと。

私も子供の頃、親に叱られたことはあります。

そして、私も自分の子供を叱ったことがあります。

どこまでが「しつけ」か、どこからが「虐待」か

今は、学校の先生が生徒に手を出したら、大変なことになる時代ですが

私の頃は、先生に手をあげられた生徒が珍しくありませんでした。

「あっ 来た!」って、怖い先生の授業は、みんな静かになるものでした。

その当時は、親もわが子が先生に手をあげられ怒られたとしても

抗議なんてするどころか、感謝するほどだったのです。

時代が変わると、環境によって育ってくる人間も変わってくるのでしょう。

昭和の時代、私達の思春期、青年時代はたくさんの暴走族がいました。

昼間から、駅前の通りに何十台もの単車の行軍が走っていたのを見たものです。

暴走族ではありませんでしたが、私も単車に乗って走り回っていましたよ。

我々のような昭和生まれの年寄りが多くなる一方で、近年は若者が少なく、

道路を走るオートバイの数も見なくなりましたね~!

走っている車の運転席を見ると、ほとんどが昭和生まれの年配の男女です。

想えば、若い青年が惨い事件を起こすようになったのは

世代が変わって、家族や学校の環境の影響のような気がします。

近代化で便利さが多くなった平成時代、人間も変わっていったのでしょう。

育てられた環境や、親の影響は大きくその後に繋がっていくと思います。

人間といえども、体は動物と変わりありません。

理性」が人間である証明なのですが、もともとは動物からスタートです。

基本的な目的は、存続と種の保存ですから・・

自分の子供を作り、育てる事は、最低限の行うべきことになるのでしょう。

縄張り争いに勝ったライオンは、他のオスの子供を始末して、自分の子供を作ります。

人間も他人の子供より、新しく生まれた自分の子供を重視したくなるのは

動物である限り、このライオンのように仕方ない自然の摂理なのです。

しかし、理性のある人間としては、他人の血を受け継いだ子供だとしても

親になったかぎりは、自分の子供と同じように接しなければ理性ある人間では

なくなってしまいます。

「父親が違う」「母親が違う」という子供達は、昔からありますね。

親も子も、心の奥にはずっと残る 致し方ない「血族の壁

本当にその壁を持っていない、父親母親は正に「本当の人間」と言えるでしょう。

「産みの親より育ての親」

様々な理由で、産んでも育てずに去ってしまう母親はいます。

私は男なので、自分の中から自分の子供が出てくるという重大な出来事を

体験できなかったのですが、身ごもった女性の気持ちはどうなのでしょう。

自分の中から別の自分がもう一人出てくること、それを放ってしまうこと程

凄い勇気はないでしょう。

それが平気で出来る人は、糞尿と同じに思っているのでしょうかね~。

人間は、世間体を気にします。周りにどう思われるか、いつも気にしています。

まれに哺乳類でも、産み捨てをし育児放棄をしてしまう動物はいますが、

ほとんどの哺乳類は、ある程度子供が育つまでは面倒をみるのです。

繰り返し、生存していくことが生物の最大の目的だからです。

種別の違う他の鳥の巣に、卵を育てさせる鳥がいます。

有名な鳥ですが、カッコウは種別の違う鳥に自分の子供を育てさせる習性です。

仮の親となった鳥は、一生懸命に卵を育て、自分よりも体の大きいカッコウのヒナに

餌を取って来て与えるのです。

なんか体の形が違うなぁ と思いながらも餌を取って与えるのでしょうかね。

人間も動物を赤ちゃんの頃から育てると、ライオンでさえ育てた人間を親と思います。

昔の話では、ライオンは自分の子供を崖下に落とし、這い上がるよう鍛えるのだと

聞いた覚えがありますが、これは虐待というわけではなさそうですよね。

虐待」という言葉が当てはまる大きな要因は、「気持ち」でしょう。

どんな気持ちで子供を戒めるのかです。

やってはいけない事を教えるのに痛さで教えるのは、サーカスで調教師がムチで行っている

感じでしょう。

動物は「痛さ」で親が子供に教えるのですね~ 言葉で表現できないからですよね。

人間は、言葉で教えることができますが、言葉では弱い点があると思います。

「痛さ」は強く印象に残りますから、それをもう受けたくないと動物も覚えます。

ある程度、大きくなってしまったら、逆に反抗的にしてしまいますが

幼い時は、従順になっているはずです。

私が思うのに、子供に対しては「ある程度は」「ある程度だけは」正す意味でも

ビンタくらいの「痛さ」を与える行為は、許せると思います。

体に跡が残ってしまうほどの「痛めつけ」は、逆に後あと本人にも良いことではありません。

「虐待」され育った子供は、将来「虐待」をする親になってしまうかもしれないのです。

飴と鞭」と昔から言葉があるように、厳しく叱った後は、優しく頬をすり合わせるのが

一番子供にとって良い「しつけ」となることを、現代の大人は忘れてしまっているのです。

子供は長い時間をかけて、親と一緒に過ごしている間に、親を観ています。

親の気持ち、親の行為、親の言語、親の辛さや苦しみ、親の接し方など

その子の将来の考え方、将来の心、将来の行為など全てに影響を与えるのです。

将来に親から受けた影響によって、優しい心や責任感や、人を助ける行為をする気持ち

そういう心の備わった大人になっていくのでしょう。

おしまいに

その子の「因果」とは、それまで幼き頃から長い時間、

親から、家庭から細かいところまで影響を受けて

大人になっていった原因のことを示すのでしょう。

そして、そのまた子供に与える影響も、長い年月から受けてきた影響から

発生してくるはずなのです。

そうして、親から子へ、まるで遺伝子と同じように受け継がれていくものだと思いました。

「その人を観ると、その親も観える」「親を観れば、その子供も観える」

とは、昔から聞いたことがある言葉ですが、昔の人は本当によく解っていたのですね~!

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