まだ少し早いけど、余生を綴る 第二回 「父の存在意味」




まだ私の今生が始まる少し前、おそらく昭和30年代前半だと思われますが
押入れの奥から出てきた、まだ若者だった頃の父の一枚の色褪せたモノクロ写真。
神奈川県にて、青年になった頃のものと思われます。

今も昔も変わらないことで、青春時代の青年が憧れるのは、
カッコいいその時代の乗り物なのですね~!

この撮影をしてくれた方(当時の父の知人、友人かもしれませんが)は、
今でも健全でおられるでしょうか。
すでに、80年ぐらいの年月が過ぎていますので無理かもしれませんが。

 

__「父の存在意味」____

 

母とお祖母ちゃんを困らせて、苦しめ泣かせた若き日の父は
その遠い昔のことを、どう思って何十年もの間を独り暮らしてきたのだろうか。

そこには、何か深いわけがあったのか。

この世に生まれてから、最初から悪い行いをする者はいません。
大人へ育っていくうちに様々な環境から影響を受けてゆき
その者の考えが作られ、ひとりの人間が作られていくものです。

どんな凄い犯罪者であっても、2歳や5歳ぐらいの時は素直で可愛い子
だったはずなのです。

その父もまるっきりの悪の性分ではないこと、
それは歳をとった私になって、考えるようになってきたのです。
そこには、そうなった何か原因があったのかもしれないと。

*        *        *

ある時、父の自宅を大掃除する機会があり
押入れの奥深くから、数枚の白黒写真が出てきました。

1枚目は10人くらいの集合写真で、それはそれは古そうな年代に撮ったと
思われるものでした。(明治時代か大正時代かと思われるくらいの)
別の1枚は、大きく右下端が切れていますが 白と黒の和服のご婦人で
そしてもう1枚は、昔古い薄茶色に色褪せて写っている、坊主頭の一人の少年。

昭和初期の頃でしょうか。
この坊主頭の少年が、父なのでした。
そして和服のご婦人が、父の母だったのです。

その少年である父の写真を見ながら、この少年時代からの運命の流れを
知りたくなるものでした。

*   *   *

集合写真から想像できることは、おそらく昭和初期の当時
父の母家系は比較的に裕福だった可能性が感じられますが、その後
は何かしらの原因で父は高校へ入らずに中学卒業後、
神奈川県へ仕事を求めて移ります。

ここは後から聞いた話ですが、頭が良くなかったため高校へは行かなかった
のかもしれませんが、職に就いても字も計算も良く書けず
社会へ出ても馬鹿にされ続けたのでしょうか、劣等感からか
自暴自棄の性格にならされてしまったのかもしれません。

持って生まれた性格もあるでしょうが、青年期に受けた様々な影響により
その志や考えが作られて、後に母とお祖母ちゃんのもとへ影響を及ぼすことに
なっていったのだと思います。

別れても疎遠ではない縁に意味があった。

母と私たち家族と別れて家を出て、独りで暮らしてきた40年間
私が高校生の頃までは、父はこっそり私達兄弟に会いに来て
こずかいを渡してくれていたことを覚えています。

この行為が続いてきたからこそ、私の学生時代の旅行土産が
押し入れの奥から出てきた理由になります。

すっかり忘れていた、別れた父との過去の交流は
出てきたその時代のお土産から意味が解ります。

本当に別れて疎遠となってしまう縁とは、違うのでした。
家族ではなくなったが、疎遠ではなかったのです。

遠くへ婿のように巣だっていってしまった弟は、
私と違って、まったく疎遠と言えるでしょうが、
しかし、私は偶然にも近くに住むようになったことも
意味が示されていたことなのでしょう。

その関係から、私は年老いて弱ってしまった父に対し
その分だけ、その疎遠ではなかった分だけは、
手伝わなければならない定めがあったのです。

 

幼き自分と若き頃の父

 

目が見えなかった故お祖母ちゃんは、婿にきた父に失望して
母を困らせた恨みも残っていたことでしょう。

そのせいなのか、罰なのか、そんな父は中年の歳になって
しだいに視力を失っていきました

片目は完全に見えなくなり、残された片目も視力が非常に悪くなり
免許証も更新できなって、身体障害手帳をもらうようになり、
早くから仕事をリタイヤとなっていったようです。

もともと辛く厳しい環境で、興味もない仕事を我慢して勤めてきた
父にとって、目を代償に仕事から逃れられることは
かえって良かったことなのかもしれません。

昭和30年代の自分

 

今思うと、私とは逆に、父は独りで生きていくことの寂しさに強く
または平気な人間だったのでしょう。
いや、独りで生きることができるシナリオだったのでしょう。

視力を失ったが、障害手当てと辛い仕事からの解放を手に入れて
三十年以上も独りで生きてきた「それでも生きる」という力は
称える部分もあると思いました。

無責任な父の存在意味

狭い視野で考れば、父は母や子供達から逃れていった無責任な父
なのですが、広い視野で考えれば母の眠れる力を引き出す役目でも
あったのでした。

安月給でも、真面目な父ならば母や祖母は一緒に過ごしていたはずですから、
あの当時の小さな家も越すこともできなく、家も大きく変わらずにそのままで
さらに、私のその後も大きく違っていったことでしょう。
今の妻とも出会うこともなく、子供もできたか解りません。

そう考えると、人は人に大きく影響していくものだと分かります。
出会ったその後が、悪いようにみえても良いようにみえても
その時にはまだ分かりません。

『バックトゥザフューチャー』という映画が昔ありましたが、
あの時に戻って、少し手を加えることができれば・・>なんて、
できれば その結果が違ってくるかもしれませんが

実際、目をつぶれば1分後には行けますが
1分前には行けないのです。

この世の全ては常に結果論でしかありません。

後に、大きな家を建てた母ですが、父が苦労させた当時には
お祖母ちゃんに「あんな男と一緒にさせて 酷いよ!」
と その当時には必ず言ったはずでしょう。

藁葺き屋根の長屋に住んでいた頃の幼年期の私

 

以前、父がまだ痴呆症も重くなかった頃に、父の言葉を耳にしたことがあります。
自分が母に過去、困らせるような悪いことをしたこと、今でも忘れていなく、
反省しているような言葉をつぶやいたことがありました。

40年前、私たち子供も置いて家を出て行った父親に、やがて老衰が訪れ
独りでは生きられなくなったこと、介護が必要になったこと
市役所が戸籍をたどって、元家族である私へ連絡が入ったとき

「はたしてどこまで子供に介護を引き受ける義務、責任があるのだろうか」と
一瞬思ってしまいました。

そして、ある知人に

完全に疎遠であったのであれば、断ることも考えられるが
その父の存在は、あなたの存在に貢献したことだけは確かであり
あなたの人生に大きく影響を与えたことも確かだよね

と言われて、介護手伝いの始まりの決め手でもあったのです。

 

今では私のような年配者がもっと年寄りの親の「介護の手伝い」をしております。
別れても身寄りの手伝いが来てくれる方は、本当に幸運だと思います。

仕事として介護にあたる係員よりも、本当に細かいところに気をきかせる事が
できるのは、真の親族なのだと思います。
そこには、何の見返りも必要としない「誠の親族」があるからでしょう。

血の繋がった親子でも、その運命のシナリオによって
やがて他人のようになってしまう境遇の方は、たくさんいるのです。

ですから、私の40年前の家族だったこの父は、幸運だったのです。

もしかしたら、色褪せた父の母の写真が私の前に出てきたわけ
いくつになっても、わが子を想う母親の気持ちの現われにて
私に「年老いたこんな情けない息子ですが、どうぞ宜しくお願い致します」と
懇願している様でもあるのかもしれません。


 

*以上、これは昭和に生まれ育った私の一記録として残しておくものです。

前編は→こちら