毎日、ある苦難の人生記が連載されている新聞を読んでいます。その記事を読んでいると今まで自分の味わってきた様々な苦難の経験が、とても緩いものに思えてきます。
長い人生の今まで(この歳まで)生かしてもらっていますが、この新聞に掲載されるほどの苦難の道ではありません。(今のところは・・)
お金持ちになったこともありませんが、貧乏にもなったこともない中途半端な身分で生きてきた自分の置かれたレベルがどれほどのものかを知らされます。
今 現在も経済苦や病気苦の中で「生きる」ということを諦めずに闘っている人が沢山いることを知らなければ、自分の人生レベルが解からないものです。
味わう苦難のレベルが高ければ高いほど、その人の人生は「レベルの高いシナリオを乗り越えるために生まれてきた」強い志を持った人だと思います。
この世の中、現実社会では「富と名誉と権力など」を持っている人が「偉い人」と通常は思われているはずです。
お金持ちは何かと有利な立場を得ることができます。屋敷の様な住居や高級車を所有することができ、貧乏人には手が出ない料理も食べることができます。
しかし、それらは永遠に続くわけではありません。どんなに沢山それらを持っていても、最後は全て失います。
自慢の体力も優秀な頭脳もすべては所詮DNAの支配によって構成されており、またその設計図に従っていずれは老いていき、そして最後は灰になっていくのです。
この人生で目に見えるものは(手に触れられるもの)は全て持って行くことはできないのです。最後に残されるのは、目に見えるものではないのです。
持って行けるのはただ一つ、この世を生き抜いた「経験・体験」が刻まれた心(想い)です。
今生で体験・経験した「険しかった・厳しかった道を乗り越えた己の記録」という尊い実績という証「想い出」です。
幼少の頃に貧乏だったが、その与えられた困難を乗り越えて昇っていき裕福を得られた人がいますが、そういう人は苦しい経験も裕福を得た経験も心に刻まれた今生の勲章を持っていけるでしょう。
裕福さを得ることができても、生活の苦しかった時代を乗り越えた経験は心に残る大切な思い出なのです。
苦労を経験した人は苦しい人の気持ちも分かり、困っている人を助けたいと思う心が湧くのです。
生まれた時から裕福な家庭の人、生まれた時から貧乏な家庭の人、いったいそれを何が決めさせるのかは解かりませんが、それが単なる偶然であるとも言えません。
この世に生まれて来たからには、何かをやらねばならないし、また何かをやりに来たはずだと思うのです。
生きていく間に何らかの問題が起こっても、それを解決していかなくてはなりません。やったことは分かるし、やってないことは分からない。良いことも悪いことも経験となり、その後に起こる問題に対しての糧や知識となっていくのです。
この世界には、様々な苦しみの中にでも「生きること」を全うしようと闘っている人が沢山います。
厳しい立場の中でも「生きていくこと」を諦めずに、毎日をどうにかして生き抜いている人達は本当に賞賛すべき強き人たちだと思います。
亡き祖母は富も名誉もありませんでしたが、目が見えないまま38年もの間を生き抜いたという勲章を持っていった称えるべき人でした。
生まれてからずっと病気と闘いながら生きている人たち、または病気の家族をずっと支えながら生きている人たち、両方ともに「それでも生きる」という闘いを続けている強い人たちです。
辛く厳しい生活によって、途中で「生きること」を諦めてしまう人たちも多いです。それが宿命かもしれませんが、残念ながら振り出しに戻ってしまうのでしょう。
今は戦後ではありませんが、現代の事情によって生きる基本である「食する」に困っている人たちも「生き続けること」と闘っています。(毎日食べ物がある人には分かりませんが)
経済的に乏しい境遇に立たされた家庭も「家族で生き抜く」と闘っています。
こうした様々な苦難の人生を強く生き抜いている人が、真の偉い人なのだと思います。
この世で本当に賞賛すべき人たちは、富や名誉・権力を持った人たちではなく「苦難の中でも生きている人たち」なのです。
「ここ2~3日何も食べてない」「目がずっと見えない」「両腕・両足が使えず一生車いす」「子供のランドセルが買えない」「痴呆症の親に目が離せない」「病気の子供を一生介護」「多額の事業負債の返済」「災害や事故で家族をすべて失った」
このような「人生の厳しい試練を乗り越える闘い」に生きている人たちは、本当に強き(レベル高い)魂を持って生まれて来た人たちなのでしょう。また、それを乗り越えるため(使命で)生まれて来たのかもしれません。
今生で与えられた厳しい試練に耐え、またそれを乗り越えた実績(体験)は、永遠に己の心に残る勲章になります。
厳しい人生を生き抜き全うした者だけが、灰になった後も持っていける唯一のものなのです・・