この世界で体感できる「愛情」を知らずには今生の価値はないと思う記




近年、年を取ってこの世界に六十数年も生き続けて様々に苦楽を体感してくると、それなりにこの人生の真の価値が何かを思う時があります。

この自身に今まで起こった良いことも悪いことも思い出してみれば、今までで一番の幸せの時(この世界に生まれてきて良かったと思えたこと)は何だったのかを分かるのです。

今生で「何かを考え思う事ができる生物」として生まれてきたことはとても価値があり、その中でも最上な「思い」を得られるのはこの時にしかできない唯一の機会だと思えます。

その最高の思いを言葉で表すと「」であり、それは無条件で何の見返りも求めない「真の愛」ということです。

この身体でこの世界へ来れた価値は「」を知ることができる特権を得た機会なのかもしれないと思い、今回は最近の社会風景を感じながら記しておきたいと思います。

現代社会には薄れてきている「」という思いや感覚

便利な技術が沢山でき生活が非常に楽になった近代社会、スマホやゲームで自分自身だけの遊びができる現代の若者たちは、架空の空間に自身を融合させて非現実的な世界に依っているように見えます。

現実的に肉体のない画面の中だけに生み出された架空のものに思いを寄せ、自分の精神をも画面の中へ入ってしまう状態でも「思う」ということには変わりませんが、実際に存在している現実のものを思える「愛する」ことができなくなってしまった社会になっていくという怖さはあります。

あくまでも画面の中の存在は画面の中でしかいない存在であり、触ることも抱くこともできない非現実的なものでしかありません。心の中に浮かばせることができる存在ならまだしも、電気がなければ画面さえ映らなくなってしまうものなのです。

我々が生まれ育った昭和の中頃にはテレビが主な娯楽で、TV番組に出演する憧れの歌手や俳優に恋焦がれていた時代がありました。画面の中でしか観ることのできない存在を考えるとそれも日常には非現実的な相手に夢中になっていたことと同じ様ですが、受け答えのできる今のAI製の相手とは少し状態が違います。

現実の友達や仲間が居なくても、画面の中に自分の好みの相手がいればそれで済んでしまう、そんな若者たちが増えていくと独身も当たり前な社会になっていくかもしれません。

昔と比べて近代的な社会はとても便利な生活にはなりましたが、その副作用も後々に現れてしまったわけです。少しづつ判明してきた少子化という国家的に深刻な問題は、便利の代償といえます。

社会的に便利な環境が生んだ少子化という副作用

今となっては原因を分かっても少子化の加速状態を食い止めることは既に間に合わないと思いますが、自分の理想相手に出会えて共に家族になれるのは出会いの運でしかありません。

日本政府がバブルの浮かれた時代に将来への対策を考えていなかった原因もあるでしょうけれども、そもそも今の若者が結婚しなければ将来の子供ができるはずがありません。

明治大正という太平洋戦争の前から8人兄弟や6人姉妹が多く生まれていたことを考えると、家庭が貧乏だから結婚できないとか子供ができないとかは関係がないように思われるのです。

おそらく現代社会には若者にとって沢山の遊ぶものが豊富となっており、父母の面倒をみる責任も少なく今のこの自分の生活を崩してまで別の新たな生活をする気も起らないのかもしれません。つまり、それだけ恵まれた環境の国となったということです。(これから将来は先細りとなっていくとしても)

40年前はスマホもなかったので、職場でも友人間でもなかなか出会いのない若者たちに向けた、地域の市民ホールや会場で男女の出会いの場が開催されていましたが、現代はマッチングアプリでパートナーを探せる時代となりました。

年収がいくらで身長が何センチ以上でなどの条件を入力して、まるで新車や中古車選びの条件検索みたいになっていますが、車選びとは違って相手も選ぶ権利はあるわけですから難しいところです。

若い時に自分の給与を自分の遊びに使って、気が付けば適齢期をとっくに越していて焦っている若者たちが相手探しをしているといわれますが、それは違うと思うのです。

どんなに焦っても出会いがない運命ならば、その人生には独りで生きるシナリオなのかもしれません。早くても出会う人は結婚していますから、時はあるでしょうけれども昔からいわれている、いわゆる「赤い糸」はあると思います。

また、結婚したとしても子供も持つ運命でなければ持てないでしょう。

このようにまず①出会いがあって②結婚まででき、そして③子供を授かれるということ、少子化をクリアするにはこのように3つの山を越えなければならないということなのです。

愛は形もなく、文字でも言葉でも完全には表せず、心で感じ得るしかないもの

肉体を持っている現実的な愛の感覚は、現実の肌の感覚で得られる最高の体感だと思うのです。

現実にあるこの世でしか得られない思い「愛」、それはこの世で体感しなければこの身を得た価値が勿体ないことのです。他を愛する、我が子を愛すること、何の見返りも求めない愛するものへの思いや尽くすこと、それが自分の心を満たす唯一のものであり、人として生まれてこれた唯一の特権だと思えます。

そしてそれは哺乳類、人間が感じられる最上の体感であり生まれてきた最高の体験となるのです。

結婚できなくても、しなくても、子供がいなくても、できなくても、愛することを知ることができれば、愛するということが何か解りそして愛とはこの上ない宝だと知るのです。

この人生において「愛」を得ずに孤独で終われば、また長い機会を待ち再びやり直さなければ自分の心が収まらないことが解かるでしょう。

「愛」は宇宙の中で得られる最も心を満たすものである。「愛」に時代は関係なく、いつの世にも得ることができる限りないものなのです。

この世界でどんなに地位や名誉があってもどんなにお金があっても、「真の愛」はどこにも売っていなく、買えるものでもありません。

「真の愛」は目には見えないものでも、その心に刻まれて永遠に残るものなのです。

そこに「愛」というものはありますか・・

TVのCMにありますが、貴方は今までに「愛」を体感(思いを感じ得た)できたことがありますか・・

生身の身体と精神がないと体感できないものであり、どれほどこの世の金や物があっても得ることのできない唯一の心の宝。目には見えなく表現もできない思いの感覚味・幸せの思いというか・・

この世界に生まれてこれた哺乳類として一番大切な獲得物は無条件の思い「愛」であり、それは己の心に永遠に刻まれる身体を得られた時の特権であるといえるのです。

今回この場に生まれたこの機会に最も手に入れるべきもの、それが「愛情」という体感です・・

それは身体を持つことができた者でしか得ることのできないものであり、生まれてこれた者の唯一の獲得チャンスなのです。


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