まだ少し早いけど、余生を綴る第一回 「昭和とわが家」

上の写真は昭和40年代、亡き祖母の兄弟の家で、幼い頃によく遊びに行った
記憶に残る唯一の一枚です。

__昭和とわが家______

昭和の20年10月 終戦から2カ月後
私の母親は、今は亡き祖母から生まれました。

当時 お祖母ちゃんは、自分のお父さん(ひいお爺さん)と暮らしており
田舎で藁ぶき屋根の2件長屋でした。

まだ2歳か3歳だったと思われる私は
今でも薄っすらですが、その藁ぶき屋根の家を覚えています。

私はその、ひいお爺さんは覚えてはいないので
おそらく、すでに居なかったのでしょう。

入口の土間の所で、おやつに梅干しを1つ貰って食べている記憶も
薄っすら脳裏にあります。


このような藁葺き屋根の2件長屋に住んでいた当時です。

これは、既に何十年も前から居ない明治生まれだった
そのお祖母ちゃんに生前、聴いた話です。

お祖母ちゃんは9人兄弟で、無事育ったのは4人でしたが
その末っ子の弟は、若くして戦争に駆り出されて、
アメリカ軍潜水艦の魚雷で、東シナ海に沈んで戦死したと
聞かされた覚えがあります。

母も自分の本当の父親を知らないと。
お祖母ちゃんだけが父親のことを知っているはずですが、
多くは語らなかったのでしょう。

後になって聞いたことは、僅かですが覚えていることは
戦時中、日本へ来ていた朝鮮人か台湾人かどちらかで
兵隊として赴任していたのかもしれないと。

一緒に暮らすようになったのはよいが、酒ぐせが悪かったようで
酒が入らなければ本当にいい人だったのですが
飲んでしまうと、人がガラリと変わったように
暴力を振るったり、暴れたりしてしまう人だったそうです。

朝になり、顔や体にアザや傷を負ったお婆ちゃんの姿を見て
自分のしたことを覚えてはいなく、深く泣いて謝ったそうでした。

そんな中、母を身ごもったお婆ちゃんを知ったお爺さんは
この子を守る意味でも、家を出て行く決断となったのでしょう。

母が生まれたのがちょうど終戦の昭和20年生まれのことですから
おそらく、その終戦で母国へ帰っていったのかもしれません。
生まれたわが子 母のことも知らずに。

なので子供の頃の母は、お祖母ちゃんと一緒に暮らしていた
ひいお爺さんを自分の父だと思っていたらしいです。

やがて、ひいお爺さんが、亡くなってしまった後
目が悪いお祖母ちゃんは働きもできず、家計の苦しさに
子供だった母と二人で、心中することも考え
遠くの線路に歩いて行ったことがあったようでした。

身体障害者の補助金や、親戚らの支援によってか
どうにか母は、育っていきますが
仲のよい友達と通いたかった高校も
生活の苦しさに中退せざるおえませんでした。

支援が終わってしまった成長した母は、町へ働きに出ますが
厳しい生活を楽にするための意味もあり、16~17歳で
親戚から婿を取るように勧められます

まだ高校も途中で中退したばかりの、母は嫌がりますが
親戚が勧めた10歳年上の男性を婿に迎えるしか
生きるすべがありませんでした。

好んで一緒になったわけではない婿取りを、生きるために
娘にさせたお祖母ちゃんは、きっと亡くなるまで
そのことを、ずっと引け目を持ってたのかもしれません。

暴れることもあった私の思春期に、お祖母ちゃんは
いつも母の苦労のことを言って叱ってきたものでした。

生活を楽にするための婿として迎え入れられた父、
しかし、その父はしだいにもっと家計を苦しめることを
するようになります。

昭和40年代当時は、給与は現金渡しが普通でした。
父はその給与袋を、すべて持って遊びに行ったきり
何日も戻らなかったりするようになります。

まだ20歳そこそこの若い母は、家賃や家計費を払えなくなると
えんえん泣くのでした。
お婆ちゃんは、慰めますが自分の身ではどうしてあげる事もできなく
胸が締め付けられたことでしょう。

まだ幼い私と弟は、そんなことも知らずに健気に遊んでいます。
このままでは育てていけないと、私達を施設へ手放すことも
お祖母ちゃんと話し合っていたことも
まだ幼かった私は、薄っすら記憶にあります。

家の支払いや、家計のために夜も仕事に出かけなければ
ならなくなった若い母は、疲れ果てていくのでした。

そして、そんな相変わらずの状態の父を見かねた母と祖母は、
苦しい行く末の中でも、父との別れを決断します。

しかし運命は、母のその苦労を糧にしてくれるようになるのです。
行く末を案じる弱々しい姿から、次第に自信に満ちた強い勇敢な姿形へと。

それまでの苦労して得させられた経験から、自らの自営を立ち上げる道
次第にその運命の流れによって向かうことになります。やがて
高度成長期の影響も重なり、大盛況期を得ることができる時が訪れました。

その運命のご褒美によって、次々と建てる家が大きくなっていくのでした。
そして私達兄弟を成人へと立派に育てることができたのです。

お婆ちゃんは、そんな一人娘を誇りに思うと同時に
深い深い感謝をして止まなかったに違いありません。

親の立場としても、子供に一生助けられながら生きて遂げられたことは
本当になんとも言いようが無い「深い恩」でしかありません。

もうすでに亡くなって、何十年もの月日が経ってしまっていますが
その恩は、ずっと今でも消えずにいることでありましょう。

私もそのお婆ちゃんと同じ「深い恩」を常に持って、今だ生きております。

第二回へ つづく

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