すべての寿命は無情であり、容赦なく訪れるものだと痛感させられる記




少し前のこと、午後のTVで放映された「母一人子一人の家庭にもかかわらず、我が子を独り残して無情にも逝かざる負えなかった実話」という内容のドキュメンタリー番組を観ました。

とてもポジティブで頑張り屋の元気な雰囲気の若いお母さんでしたが、寿命は無情にも容赦なく訪れるのでした。

今まで長い年月を生きていて様々な人の天命を知ってきましたが、先の様な無情な現実を与えられた人々を見ると、「すべての寿命は無情であり、容赦なく訪れるものだ」と痛感させられるものでした。

そこで今記は、「現実的には人間の善や悪(道徳)など関係なく訪れる無情の定め(寿命)」という内容の題で考え綴っておきたいと思います。

 

それは善も悪も無い、無情の定め

この世には様々な人が存在しています。誠実で優しい人、頑張り屋で情け深い人、その反対に自己中心で無情な人、人の痛みを考えず悪行をする人、こうした「善良な者と悪徳な者」の両者がこの世界には何処にでも必ず存在します。

そして無情なことですが、全ての善人が長く良い生涯を迎えられるわけでもなく、全ての悪人が短く悪い生涯を迎えるわけでもありません。

この世界に起こること全て(自然)は無情であり、人間が作った善や悪という概念・「倫理や道徳」など、全く考慮してはいないということです。

「あんな誠実で良い人が、こんなに早くいなくなるなんて・・」とか「あんなに酷い人がまだ長らく生きているなんて・・」ということを良く耳にすると思います。

とても良い人だからといって、長く良い最後を迎えるとは限りませんし、凄く悪徳の者が悲惨な最後になるとも言えないのです。

人生長く生きていると、色々な者に出会います。とても素直で優しかった元同僚は30年という期間だけの生涯で逝ってしまいましたし、昔の取引先で幼い2人を残したまま病に侵され逝ってしまった、優しいご婦人もいました。

またその逆では、意地悪をしたり妬んだりしてきた昔の知り合いは、今でも元気に遊び廻って生きている様です。

良い人はすぐなくなり、悪い人は「憎まれっ子世に憚る」ということわざが昔から云われていますが、何となく気持ちだけは分る気がします。

良し悪し関係なく、時は順番通りに

その昔、興味深い内容の映画があったのを想い出します。

ファイナル・デスティネーション」という題名の映画があり、「定められた寿命」には逆らえないという「死神のお迎え」みたいな内容で、それはそれは独特の恐怖感を与えられました。

【貴方の寿命はその時までと決まっていることであり、それ以上に貴方が生きていると(貴方が起こすほんの僅かな行為によって)周囲のシナリオも全てズレ狂っていってしまう】という意味がそこにあるわけなのです。

この映画でもあった様に、彼女が次の日にも生きて行動していたことで  周りに少しづつズレを起こしていきました。

彼女が起こしたほんの僅かな秒数の行動でも、後ろに居た人やその次の人へと次々にズレて事故に遭うはずの人が事故にならなくなり、逝かないはずの人が逝くという狂いが出ていくのでした。

なので、決められた寿命の定め通りに順番に居なくならなければというわけなのです。

また、逆に定め通りの順番時が来なければ何しても逝くことはないことになります。これもまた、先の周囲に変化を与えてしまうことになるからです。

この映画でもありましたが、自分に撃った弾が全て不発に終わったという場面がまさに鳥肌ものでした・・

私の亡き友人も時が来るまでは何度かの自害も失敗となって、命拾いをしたようです。結局は時が来て迎えが訪れましたが、もしかしたら毎年の自害者もその定めの時だったかもしれません。

無情さに思えても深い意味があるのかもしれない

とても無情に思えることなのですが 先に記した映画の内容通り、もしかしたら【次に繋がっている深い意味】があるとも思えます。

志半ばでも、どんなに惜しくても逆らえない無情さの意味、それは次の周囲に与える影響があるためという考えです。

大切な人を亡くした人はその後、それによって大きな影響を与えられ「今生のシナリオ通り」になっていくのかもしれないのです。

大切な人を病気で失ったからこそ、医者になろうとした人も多いでしょう。このために、その人は役目を果たして逝ったというシナリオの深い繋がりです。

生まれた時には周囲に大きな影響を与えていきます。そして逝く時も周囲に影響を与えていくのです。一人一人の誕生が周囲に影響をし、一人一人の終わりも周りに影響を与えるのです。

貴方が生まれていなかったら、あの人に影響を与えなかったでしょう?あの人があの時逝っていなかったら、この人には今の変化は無かったでしょう。

先に記した「無情にも幼い子を残して逝く定め(寿命)」は本当に可哀そうなことなのですが、残された子は母を想い強く逞しく生きていける人間に育っていく(シナリオになる)のかもしれません。

生身の体を持った生物は老いや病気だけでなく、様々な要因で終わりを告げられる時が訪れるものです。

寿命まで迎えれば それは天寿全う

自分がいつどんな終わり方を迎えるのか、それは誰にも分かりません。

わが国でも毎年のごとく様々な逝き方で、およそ130万人の人たちが今生を閉じています。

突発的病気、事故、天災、人間関係被害、動植物による被害、仕事中の過失など、人様々です。

近年、世界的に有名になったウイルス感染で多くの老若男女の方が天命の時を迎えてしまいましたが、あの東日本大震災でも同じくらいの方々が僅か1日という短い期間天命を迎えました。

自然(寿命)は無情に訪れ、何で終わりを迎えるか自分では全く予想もできません。

そして、それ(逝き方)は いつ、どこで、どうやって、何でもありえて知る由もないのです。

来週、来月、1年後に「まさか自分がこういう形で・・?」という場面になるかもしれません・・。

そう考えると、今日も終わりか続けられるかの賭けの様であり、明日も同じく賭けていくことになります。

 

私たちは寿命(己の定め)の訪れるまで毎日、この体でこの世界に存在していけます。

そう、寿命の訪れるまでは(私の亡き友人のように)決して逝くことはないわけですから、その点は安心です。

そして、どういう形で寿命(定め)を迎えるにしても、今生の天寿を全うした証となるでしょう!

 

ただ 最後に、これだけは覚えておきたいと思います!

「寿命(定め)に情けなど無い!」ということ・・

–完–


♢ 余談 ♢

長く生き続けるのも辛い目に遭う

これもまた昔のある映画を想い出しますが、「ハイランダー・悪魔の戦士」という何世紀もの間、生き続けてきた戦士の物語がありました。

今は無きロックバンドのQueenで「Who Wants to Live Forever」という曲が脳裏に浮かんでくる人もいるかもしれません。自分だけ寿命が来ずに、愛する身近な人を次々と看取り続けるのも非常に辛いものでしょう。

一般的に人は長生きの天命が良いと思われがちですが、逆に長生き過ぎるのも苦しいものとなります。友人や知人はどんどん居なくなり、自分の息子や娘にも先に逝かれるという非常に厳しい苦しさを味わうことになるのです。

これも何かの遠い過去の因果が今生のシナリオとして与えられているのかもしれませんが、それは己の過去しか分からないものです。

ある新聞の記事で、100歳近く長生きしている老人が言っていたのを想い出します。「自分の子供に先に老衰で逝かれる苦しさは、とてつもないものだった・・」

 

↓以下からは、非科学的&個人的な記のため閉じて結構です・・

 

悲惨な終わり方は、因果応報による寿命の定めなのか?

いったい何の因果なのか昔から、義理の父や母による虐待で幼い子の痛たましい事件があります。

たとえ他人の子だとしても、「可愛い幼い子を、よくそこまで痛めつけることができるなぁ!」と普通の常識では思えることです。

ライオンは他のオスの子供を排除するといわれていますので、まるで野生のライオンの様です。

しかし、同じ動物といえども人間は理性や知性の持ち主であり、野生のライオンとは違うはずなのです。

ものには全て限度というものがあり、野生の動物でさえ、食用にしない場合の争いは相方が抵抗できなくなった時点で攻撃を止めるのが常です。

抵抗もできない無力で小さな存在に対して、ここまで酷い虐待を行えるというのには「何か人知を超えたものが大きく影響している」としか思えないのです。

ここからは個人的な非科学的考えなので無視して結構ですが、「何か過去の因果」が関係しているのかもしれないと思うのです。

例えばですが、遠い過去にその存在に同じ様な処罰を与えたので、今生にその苦痛をその存在から与えられるという定めを持ってきたという因果応報というものです。

遠い昔にあった有名な事件で、思春期の中学生が起こした「狂気の神戸事件」を想い出しますが、あれも人の行為にしては酷すぎますので、遠い過去の酷い因果応報にしか思えませんでした。

他の哺乳類と同じように人間は母親から生まれてきて育っていきますが、育った環境が良い悪いだけでは人格は決まらないと思います。

貧乏だって親思いの子供が育っていますし、裕福だって誠実な育ち方をして青年になった人もいます。そう考えると、育て方や育ち方ではなく「過去の因果から繋がった人格になっていき」今生にてその行いをするというしか思えないのです。

恨みや復讐の因果を果たす、果たされる今生シナリオ。そしてまた、前回の感謝の念を持って恩返しに功績を作りにきたシナリオ。

恨み憎しみは、また恨み憎しみへ繋がり、感謝の行いは感謝の繋がりへと波及していくのでしょう。

暗い因果は、同じこと何度か繰り返していくうちに、いずれどこかで断ち切らなければいけないことだと分かってくるのでしょう。

泥をバケツに汲んだら、泥では綺麗に洗えません。泥ではなく水に切り替えて洗えば綺麗になるのです。泥を泥で返すのではなく、繰り返しを断ち切って因縁・因果を終わらせるシナリオにするのです・・。

 


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