どんなに重い判決が下されても「遺族の悲しみは癒えない!」と思う記




生存のための命奪いは毎日している

自分が「生きるため、食べるため、守るため」などの意味のある命奪いは、毎日普通に我々がやっていることです。野菜や家畜動物の肉、小麦粉だって元々命があったもので、住処に入ってきた蚊やゴキブリですら命があったのですから・・。

でも私たちはそういう命を奪って生きているのに、普段まったく罪を感じていません。

それは「生きるために食べる、守るために排除する」という生物の基本的な「生きていくため」という意味のある行為だからでしょう。

戦争の時に食べるものがなく、仲間の肉を焼いて食べたというドキュメントを観たことがあります。「食べるために命を奪うこと」は当たり前なことで、責められることではありません。

しかし、守るわけでもなく食べるわけでもない殺人や通り魔など、意味のない命奪いは自然の摂理からも「罰せられるべき罪」となるべきでしょう。

 

遺族の心の痛みは重い判決でも消せない

ニュースで酷い事故や事件が知らされる現代、数年前にも悲惨な事故がありました。

酔っぱらいの車に押されて車ごと深い水の底へ突き落され、幼い3人の子供の命を同時に奪われてしまった悲痛な事故がありました。車の過失事故ではあっても、人の命を奪ってしまったことには変わりありません。

わざと子供達の命を絶とうとしたわけではないので素直に証言するべきなのに、泥酔だった加害者は裁判で少しでも罪を軽くしようと嘘をつくのです。そこに可愛い3人の子供たちの命を奪ったという申し訳ない気持ちが湧かなかったのでしょうか・・

加害者の嘘の証言の影響によって、何年もかかってやっと裁判の判決が下されました。

しかし、何十年という服役刑が決められたとしても、可愛い我が子を失った親の悲しみや苦しみは決して癒されるものではありません。またその心の痛みの深さは計り知れないものなのです。

発生を止めるには厳しい抑止力が必要

人間が作った裁判制度、大昔は罪人を裁くやり方は非常に厳しいものがあったそうです。罪人の犯した罪にによっては、その家族も一緒に思い刑を受けたのです。犯罪者としても親があって誕生し育ちましたから、育ててくれた家族への気持ちは被害者遺族と同じに持っていると思います。

いろいろな命の奪われ方はありますが、残された遺族の苦しみを共感するというならば、酷い凶悪な殺傷犯罪を起こさせないためにも、大昔の様な家族へも巻き込むぐらいの重い刑を定めるべきではないかと思います。

つまり「犯罪人の大切な子供や家族も同じく罰する法」が昔の様にあったならば、やたらに人の家族を犯すことができないこととなるでしょう。

親族をも巻き込むという非常に重い刑を定める効果としての「犯罪の抑止力」は、悲しい思いに苦しめられる遺族を出さないためには有効ではないでしょうか。

懲役10年20年30年や無期懲役等どんな重い判決が決まったとしても、奪われた大切な我が子や家族は戻っては来ませんので、残された家族・遺族の悲しみ、心の苦しみは、決して癒されることはないと、繰り返して今回記しておきたかった[大きな訴え]なのです。

今の人間の裁判・判決では・・


この世の中、世界中で今日も何らかの命が奪われる事件・事故は発生していると思われます。

毎日ニュースで様々な出来事を知るものですが、他人事として観ていられないものもあるでしょう。当事者となってしまったらと思うと心が痛み、今回の記を綴ることにしたのです。

しかしながら、大切な我が子やお母さんお父さん兄や妹の命を奪われてしまった遺族の気持ちは、本当に同じ思いをしたものでなければ分からないのです。

過去から現代まで数々の酷い境遇に苛まれた方々に、心よりご冥福をお祈り申し上げます。