大切な家族の命を奪われてしまった悲しみは、どんなに厳しい判決が出されたとしても、それによって決して癒されるものではない・・と思う綴り
「罪を償わせるという意味の服役刑で、果たして残された家族の悲しみが消えるというのでしょうか?」
昭和の昔からニュース番組にて様々に悲惨な事件が絶え間なく知らされるものです。
先日もあるTV局で過去に起こった悲惨な事件・事故の振り返る特番を放送していましたが、その悲惨な事件や事故で大切な家族の命を奪われてしまった遺族の気持ちを、自分の立場として考えてみると、本当に居た堪れない思いでいっぱいになるのです。
たとえ裁判で重く厳しい判決が決まったとしても、「死刑や服役刑で罪を償わせる」と決めているのは単に人が決めた制度でしかありません。
本来は被害者・残された遺族が判決刑を下すべきだと思うのです。犯罪も事故も共に。
間違いで起きてしまった命奪いと、故意で無情な命奪いとでは罪のレベルも全く違いますが、
奪われてしまった命は、どんな判決や罰が出たとしても、永遠に戻っては来ません。
そして、残された遺族の悲しさや心の苦しみは、決して消えることはないのです。
「裁判なんかどうでもいいから、娘を返してください!」この一言がすべてです・・
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被害者や被害者遺族の心に付いた傷や悲しみを、罪人へ思い知らせることが本当の「罰を与える」ということではないでしょうか。
体の痛みは体にいるうちだけですが、心の痛みは体がなくなっても続くものだと私は思います。
これは批判を受けることかもしれませんが、同じ心の痛みや悲しみを与えることが「罰」に相応しいと思うのです。
大切な家族の命を奪った罪人には、同じように罪人の大切な家族の命を奪えば、その悲しみ苦しみが分かるでしょう。同じ心の痛みを与えるしか本当の罪の重さは分からないのではないでしょうか。
こんなに技術が発達した世界になっているにもかかわらず
人間の無情な犯罪は全く無くなっていきません。
酷い殺人事件や交通事故による殺人
高度な知能を持っている人間なのに、他の動物以下の「意味のない殺し合い」をしています。
人間以外の動物は「無駄で意味のない殺し」は ほとんどしません。
動物のように食べるために殺すというならば、そこに意味はありますが
食べるわけでもないのに殺すのは意味が無いことになります。
自分たちの陣地を守るために排除というならば、そこにも意味は付けられるでしょうけれども、脅威な相手が去っていけば無駄な執拗行為はしないのです。
動物と同じように人間も縄張り争いが起きるのは仕方がないことだとは思います。自分たちの住処を守るためならば、そこに平等や正義などは関係がないからです。
仲間や家族を守るために戦い、脅威の相手の命を奪うことは当然なことであり そこに裁判などは意味がありません。
大切な家族の命を奪われてしまった理由で、復讐・報復を考えることは当たり前だと思います。それを「復讐はやってはいけない!」などと道徳っぽいことを云われるものですが、被害者遺族側になったならば、果たして「そうですね」と納得し凶悪犯罪者を許せるでしょうか?
あくまでも裁判官は第三者の見解で、事情・事実の証拠等を元に公平な立場で刑を決めるものですが、その裁判官本人の大切な我が子や家族が「惨い命の奪われ方」を受け、被害者遺族となってしまった場合には、他の人の裁判のように冷静沈着な気持ちで裁ける立場になれるでしょうか?
死亡経験のある天文学者の木内さんが出版された本に書かれていた一節をよく覚えています。
「命を奪った者は、それが他人でも自分でも同じ罪であり、逝く際に後悔という激しい苦しみを受けるのです・・」
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