年寄りが語ることなので、軽く流してもらっても結構ですが・・
遠い昔のこと、まだ昭和の時代が終わるぐらいの頃です。
内装業の営業をしていたのですが、工事担当の先輩と内装工事へ車で出発し
当然に走りながら、助手席で運転する先輩と会話しておりました。
その時、ある場所に通りかかって信号待ちで止まった時です。
今のこの状況とこの会話内容、この雰囲気の場面は前に体験したと・・
まったく同じこの場面は、2度目だと気がつきました。
いくらなんでも、まったく同じ日はありません。
長い人生の間、同じ日常生活においても、どこかしらは違っているはず。
私は、あらかじめ夢でこの場面を体験したのだと悟りました。
「デジャビュー」という現象を後から知りました。
当時はまだインターネットも無く、本屋で書物を探すしかありません。
「ここに見覚えがある!」「この場面どこか記憶にある!」など
私だけではなく、他にも経験した人はいるのでしょうけど
しかし、その証明をすることはできません。
本人しか解らない体験ですから
気のせいだと言われたら、そうかもしれないと云うことになります。
私がその当時にこの出来事を気のせいにしてしまっていたならば、
何十年も経った今ごろ、この記事に書く記憶など無かったでしょう。
「己の定め」という運命のシナリオ
上の体験をしてから、私は思うようになりました。
「先はすでにシナリオのように決まっている」のだろうと。
その考えをもっと固めさせたTVのドキュメント番組がありました。
今ではユーチューブでも観ることができますが、本当の死亡経験がある人で
木内鶴彦氏という方のノンフィクション番組でした。
心臓が止まり、死亡が確認された後に体験されるのです。
その中で、今回の「己の定め」という意味が解ります。
意識体だけとなった木内鶴彦氏は、事故を免れた幼かった自分の時代に行き
助けたのは自分自身だと解ります。その後、亡くなったはずの自分の未来へ。
当然、亡くなった人の未来はないはずですが、中高年になった自分を具体的に
見ることができたのでした。
その後、心臓は再び動き出し蘇ったのです。
そして、中高年になった時に その観た場面を自分が行っているのに気がつきます。
私が体験したことや、この方が体験したことなどから考えられることは、
つまり、まるで映画のシナリオと同じく出来上がっているシナリオを私たちは
行っているということになります。
私がまだ結婚もしてない頃、まだ生きていたお祖母ちゃんが言っていた言葉を想い出します。
「大丈夫だよ! もう先は決まってるんだから・・」
それでは、せっかくの人生を得られたにもかかわらず、なぜ早く終わってしまう
定めの人がいるのでしょうか。
早くして亡くなる人も、長生きする人も、そこに予め決められたシナリオで
生まれてくる意味があるのでしょうか。
そこには、その人の役目というものがあるのでしょう。
どんな物語にも、登場人物は必ず出てきます。
ある日、出会う人や別れてしまう人など、必ず登場することになっています。
自分であるかぎり、いつも主役は自分です。
しかし脇役の人たちも、自分に与えられた役を果たさなければなりません。
自分が脇役だったとしても、お役目を立派に果たすのではないでしょうか。
悲しい別れの場面も、すべての人生には必ず体験し、また させるものです。
長い間生きていると、周りの人が先に今生を去っていきます。
私も同じく、親族や知人友人を何人も先に見送りました。
自分のお話(シナリオ)が終わるまで、今生は終わりません。
私のとある友人は、とうとう寿命が来るまで行けませんでした。
何度となく去ろうとしても、未遂で行けなかったのです。
逆に、うまく行けた人はそれがシナリオだったともいえるのでしょう。
私もはっきりと解りませんが、無人島で独りで生きているわけでは無いため
周りに影響を及ぼしていることは確かなことだと、生きてきた経験から悟りました。
みなさんも、ストレスになってしまうほど悩む必要はないですよ。
悩みは今生の課題で成長ですから、必要なものなのですが、
先は決まっていると思えば、「その時は、その時」で
悩みは半分に減らして考えましょう。