他人と己を比べることは無意味であるという「桜梅桃李」を想う記




人は物心をついた頃から、必ずと言っていいほど他人と自分を比べる様になります。

まだ幼児の頃は、他の人間と自分を比べたり羨んだりすることはなかったと思いますが、次第に他と自分の違いに気がついて、その違いを考えるようになっていきます。

生まれた家も家族も、環境さえも違うことに気がついてくると、「比較」という気持ちが芽生えてしまうのが人間という高度な知識を持つ生物なのです~!

本当に幼い時は、親さえいれば他と何も比べる必要はなかったのですけどね~

3歳~4歳そして5歳、幼稚園でいろいろな同じ歳の子供たちと一緒に過ごすようになり、自分との違いも分かってくると、家で親に聞いてくることがあります。

「ママ、どうして○○ちゃんの家とは違うの~?」

裕福な家庭に生まれた子と、貧乏な家庭に生まれた子は、無情ですが本当に違います。

与えられる環境によって、その後の生き方も大きく異なっていくものです。

何がその人生のスタート地点を決めるのか、その原因や真実は分かりませんが「すべての人が全く同じ始まり方をしていることは無い!」とだけは分かります。

その人の人生体験は、その人しか分かりません。たとえどんなに親密な間柄の親子であっても、感情や痛みはお互いに解かることはできないのです。すべてが個々になっているのです。

どんなに愛し合っていても、ひとつの体に2人は入れないのです・・

この人間社会の中には、本当に羨むほどの方々がたくさんいますよね~!

株で大金持ちになった人、テレビに出て有名人になった人、偉大な発明で世界中から賞賛される人、スポーツで記録を作る人、本当にたくさんの羨ましい人達がいるのです~!

人間には「他人との比較」において、切り無く一生どこかで湧いてくるものだと思います。

またその反面、人を羨む心や人と比べる気持ちが湧くことで、進歩や発展してきたことも事実だと思います。

私も過去に同じようなことがありました。「あの人が羨ましい!あの人みたいになりたい!」と思うことで、その人みたいに技術を習得できたこともあったのです。

でも、その人みたいにはなれましたが、当然にその人にはなれなかったのです。

自分の姿のまま、その人みたいな技術習得者になったのでした。

 

人もみな桜梅桃李
 
 
私は貴方にはなれず、貴方も私にはなれず。
桜は梅にはなれず、梅も桃にはなれず、それぞれが皆個性があって存在している。
 
人間はみんな同じ形になっているけれども、身長も体重も体型も違い、誕生も生まれた環境も違い、考え方も好みも違うものです。
だから人はすべてオリジナルな生き物といえるでしょう!
 
先ほども記した通り、羨ましく思えて目標とした人物に向かって、技術を磨いたという点については「人と比べる」ということはプラスの効果だと思います。
 
しかし、その「羨ましい思い」が自分を劣等感に誘ってしまう場合もあります。
まさしくそれが、今回は記しておきたかったことです。
 
「あの人と比べて、私はなんて情けない人間なのだろう~」などと思ってしまうことも、人生には必ずあるものです。
 
与えられた自分の能力を悲観してしまうこと
「私は何で、このようにできない人間に生まれたのだろう~」と落胆してしまうことです。
 
自分よりも優れた人間は、世の中にたくさんいます。いや、そういうふうに思えます
 
しかし、今回この記で言いたかったことは
 
桜梅桃李」 の示す意味は
人を羨まず 己の道を 真直ぐに全うする!
 
「与えられた その体で 今回の人生を やってみろ!」 
 
(与えられた その僅かな力で、今回のこの人生を生き抜いてみなさい!)
 
上の言葉を耳にすると、人と比べて嘆くことは意味がないということがはっきりします!
 
 
人生が物語りだとすれば、あくまでも自分の物語しかできないので、他の人は家族や親でさえストーリーに登場する役者ということになります。
自分がなくなったらストーリーはお終いで、他の役者も全て消えるということと同じです。
以前の記から抜粋
 
 
こういう風に考えると「全ての羨ましく思えていた人々が、ただの役柄だったのか~!と悟り
 
今まで比らべ続けて劣等感に覆われていた気持ち意味がなくなるのです
 
ということを今回、自分の心にも記しておきたかったのです。
 
あらためて、もう一度 迷ったり劣等感が湧いたりした時は、想い出してみること!