何も悪いことをしたわけでもないにもかかわらず、思わぬ不運にみまわれてしまう。
道徳的にも悪いことをしているにもかかわらず、特に不運な出来事に遭うわけでもない。
仏教でいう「因果応報」という言葉、それが真実であるのかをはっきりと実証できる術もない。
身体的にも問題なく健康なのに、ある日の朝いつも通りに家を出たきり二度と戻っては来れない。
それを人は「不運」や「運命」と呼んでいますが、そうなると人が作った概念である「条理・道理」というものは全くと言っていいほど無意味なことになります。
今回は人が思っている「条理」と、それを意味なくする「不条理」ということについてを考え記しておきたいと思います。
人が思う物事には必ず「こうすれば、こうしていくと、こうなる、こうなっていく」という流れの法則のような考え方があります。それは普通に考えられる「その原因からのその結果」という常識的な考えという意味です。
こつこつと努力していけば必ずいつか希望する目標へ到達できる!健康のために毎日続けていれば長い間健康な身体でいられる!など、その原因がやがてその結果に繋がっていくという法則みたいなもので、それは(当然のこと・常識的なことで) つまり「条理・道理」のことです。
しかし、その常識的なことであっても現実はそうはならないものが多々あります。人の考えられる「常識的」な結果が覆される「非常識的」な結末になってしまうことも多いのです。
真面目に懸命に通って無事に卒業日を迎えたその日、突然の事故に遭ってその人生を閉ざされてしまったという青年がいました。若い青年は卒業できれば次には前途洋々の目標を胸に抱いていたはずです。そして彼の周りもそうなるだろうと普通に思っていたに違いありません。しかしそれは無情にも閉ざされ終わってしまったのです。
それは、懸命に真面目に誠実に努力していたから良い方向へ繋がるという流れ「条理・道理」というものではなく、全く異なる予期しない結末でした。
この世の中にはこの他にも様々な無情の出来事が沢山起こっています。
一生懸命にやってきたのに逆に悪くなってしまったとか、注意していたにもかかわらず事故に遭ってしまったとか、まじめに誠実に生きてきたのに悲惨な目に遭って終わってしまったなど、本当にこれらはすべて「理にかなって」いることではありません。
たまたまその日その時そこに居ただけにもかかわらず、何の関係もない知らない人に無差別的にターゲットにされてその日で人生を奪われてしまうという事件もあります。
ただその日その時にその場所を歩いていたというだけで、思いもよらぬ事故に遭って人生を閉ざされてしまったという人も多いのです。
このように朝いつも通りに家を出て行っても、もう二度と家には帰れない人がいるわけです。
そこには慈悲もない無情な「不条理」というものが、時に起きてしまうのです。
「こうやれば当然にこうなっていくのは常識でしょう!」といわれる「条理・道理」は、その時点で人が考えられる未来予測であり、保証されている確実的結果ではありません。
それは時に、まったく違う方向になってしまったという結果も出てしまうわけで、何の影響でどこでどう変わってしまったのかという原因が分かればいいのですが、なぜか全く分からない場合がそこに存在します。
そう、常識では考えられない予測不可能な出来事が時には起こってしまうのです。
ただふつうに道を歩いていて、上から何かが落ちてきて命を絶たれてしまう人や、横から突然何かが突っ込んできて終わりを迎えてしまった人など、どうやっても防ぎようがありません。
そこには何でそうなったのかという「常識や道理」が存在しません。そこをその日時に通ったのが原因ですが、逆にそれをどうこうできたわけでもないのです・・全く予測不可能な出来事なのですから。(「ファイナルデスティネーション」という映画ではありましたが・・)
あんな誠実で真面目な人がこんな目にあって終わるなんて、あんな悪い人がこんな裕福な生活を与えられているなんて・・それは人が考えている「常識や道理」などではありません。
ここに何十年も住んでいても近年の極地豪雨、線状降水帯によるバケツをひっくり返したような水が空から降ってくるなんて思ってもいなかった・・という場合は気候変動の道理かもしれませんが、いずれにせよその起きることに予測などできないのです。
自分に降りかかるあらゆる無情の「不条理」は、いつどこで何が起きるかなど誰にも分からない為に防ぎようもないのです。
武士の時代から近代社会へ移り、技術的にも人の生活は快適になっていきました。冷蔵庫があって洗濯機があって自動車があって新幹線や飛行機が乘れて、江戸時代までとは全く違います。
でも昔から無情にも変わっていないこともあります。どんなに近代社会へ進歩していったとしても全ての人々が同じ生活を出来ているわけではないことです。いつの時代も国のトップ階級が決めたことに人々は従っていくしかなく、国のトップ階級らが自分の立場のことしか頭にないことです。
令和時代に入って(平成時代よりも更に)我が国の国政も随分酷くなってしまった感じに思えるのです。昭和の高度成長期時代を経てバブル期を潰し、消費税を作って企業の経済成長を止め派遣業を発生させ労働者の格差社会を広げてしまった、その浮かれたトップ階級らは先のことなど考えていなかったはずです。
通学路に歩く小学生の人数がいなくなり、昼間に走っている車にはほとんどシルバーマークが貼っていて、人が増えないのに収入が増えないのに税金が増えて、国税収入は12%も増えているのに平均収入は2%しか増えない、そういう現実を今の政治家も昔と変わらず身に染みていないと思えます。
国民のことを思ってやっているというよりも、もはや「政治家という職業になっていること」「その地位や席を保つことだけ」本当は自分らでも分かっているはずなのです。
備蓄米が古い3年以上前の災害用のものとして民衆に売っていても、政治家の家庭では買わないで高くても新米を食卓に並べているのかもしれないでしょうし、大多数の国民が経済的に余裕もなく苦しい時に、様々な税金を増やしていってるにもかかわらず「国民を豊かにし経済発展を目指します!」なんて選挙時のみ宣伝文句、どういう「道理」でやれるのでしょうか・・
国民が選んだ誠実な代表によって社会&生活が良くなるはず(条理・道理)が、逆に悪くなってしまうこと(不条理)も大昔からあるのです・・
国民がいて政治家が生きていけることを思い出してほしいものです。政権は派閥や政治家同士が選ぶのではなく、国民が直接的に選ぶべきだと思うのです。
地震の大災害の数か月後には今度は大雨洪水による津波のような被害、復興に向けて立ち上がったにもかかわらず何度も不運に見舞われてしまうことは、まさに「条理や道理」とはならない「不条理」というものでしか言いようがありません。
全ての人は幸運へ目指して日々生き続けています。こうしていけば自分が思っている明日がある、来週がある、来月がある、そして来年があり5年後がある、10年後があると思って毎日生活しています。
しかし実際は、そこには考えらる将来への見通しであって確定している未来というわけではなく、単に「予定」でしかありません。予定はあくまでも予定であり、このまま何も変わったことがなければその通りになるはずという流れ(条理)です。(余談:保険業はそれを商売にして成り立っていますが・・)
しかし、先に起こることなどを知る術もない我々には、ある時その「不条理」がわが身に起きることなど防ぎようはありません。そこには特に原因は無いのですから・・
そして我々には無情なことでも、その突然起きる「不条理」を身に受けるしかなく、そしてまた仕方なく先へ進むしかないのです。
そういうものだと・・
つづく・・