毎日起こる犯罪は民主的な優しい刑罰では抑制にならないと思える記!




毎日何処かしらで起こる犯罪、現代社会での「民主的な優しい刑罰」ではその抑制に足りていないのではないかと考えみたところ、今回はこの様な題で記してみようと思いました。

新聞でもネットニュースでも、毎日毎日何処かしらで何かしらの犯罪が起こっているものです。このウイルスの影響による新社会になってしまった中でも、人は悪いことだと解っているにもかかわらず、誰かしらが何かしらの悪いことをして人に被害を与えているのです。

動物界のように自分や家族が生き残るために必要な悪い行為ならまだしも、それ以外に起こす(人間だけが犯す)無意味な犯罪については、昔の様に厳しい処罰を与えなければ永遠に無くならないと思うのです。

今もニュースを観ていて出てましたが、去年あれだけ有名になった「あおり運転」が無くなっていないみたいです。昔からあったのですがドラレコの普及化によって、やっと大きく社会問題となりました。政治を動かし法律が新しく道路交通法+犯罪に加えられ、刑罰が厳しくなったこと、みんなが知らされているはずなのに、いまだに堂々と被害者のドライブレコーダーに証拠として撮られるのです。

見も知らない人にわざと幅寄せなどの嫌がらせ運転を最初にするわけありませんので、相手の故意ではない「ちょっとした間違い運転行動」など、何かしらの勘違いで相手に対して怒りが湧くのでしょう。

けれども、相手がまったく知らない他人だった場合は報復する必要もないはずです。ちょっとした相手の運転ミスに「ムカっ!」とした気持ちが誰でも湧くでしょうけれども、ここはグッと我慢して自分の目的地へ向かえば今まで通りの生活のままで済むのです。

そのちょっとした相手のミスに怒ってしまい、故意ではない相手に危害を加えてしまえば「録画映像」に自分の怒りが残って自ら犯罪者へと変わり、これからの自分の人生が狂ってしまいます。逃げても被害者の録画によって手配が廻り、間もなく自宅は囲まれ巡査がピンポンを押すのです。

ほんのちょっとした我慢が自らの人生を大きく左右するわけです。

自分の映った映像が全国ネットのTVで放映されてしまえば一躍有名犯罪人になり、勤め先にも知れて仕事も滞ってしまうでしょう。地域にも知れて家族にも心配をかけてしまいます。そして被告となり長い裁判へと出されてしまうことになるのです。

ドラレコの無かった時代は「やっただ、やらなかっただ」と、どちらが真実を訴えているのか判りませんでしたが今では、ほとんどの車にレコーダーは付いていますし、街のあちらこちらにカメラが設置されているので裁判の証拠は十分であり誤魔化せないのです。

こんなにカメラが設置されている社会であっても、悪質な犯罪を犯す人がいるのは何故でしょう。(刑務所に入りたい人は別として)

今は事故も犯罪も録画カメラによって、ほとんどスピード解決できる時代になっているのです。

悪質な犯罪と衝動的な犯罪と、生きるための犯罪
 
悪い事だと解っていながら、その悪いことをしてしまう高知能の人間。
もし警察という組織が無かったら、まさに「弱肉強食」という無法社会でした。つまり強い者が正しいという動物界の法です。(人類も少し似たことをしましたけど・・)

自分が生きるために命や物を奪うという行為は、基本的には全ての生物が悪意なくやっていることで、自分が生きるためには仕方ないという理由がそこにはあります。
我が子や家族を守るために敵を排除する(敵の命を奪う)という行為もまた、仕方のない理由になるでしょう。
しかし、家族を守るでもなく食べるでもないのに命を奪うのは無意味な「虐殺」となります。無意味な殺戮は真の悪行(犯罪)であり、高度な知識生物である人間しか行いません。
第二次大戦中のドイツ軍によるユダヤ人迫害のように、無意味な殺戮行為はあってはならない大変に重罪なことです。多くの人たちが集まる中にテロ行為による無差別殺戮も同様です。
 
つい衝動的な行為によって、被害者を作ってしまったという犯罪があります。命を奪うまでのつもりではなかったのに、たまたま当たり所が悪くなって結果的に殺人となってしまったというケース。
この場合は、やはり致し方のない犯罪になるでしょう。
 
それぞれの犯罪は「仕方ない理由」「衝動的な理由」「悪質な理由なき殺傷」に分かれますが、それぞれ裁判によって罪の重さが決められます。
 
故意に犯した悪行については、優しい民主的な刑罰の定めでは甘いゆえに、抑制することができていません。
大昔の拷問の様な、それはそれは厳しい刑であれば「故意の悪行」は恐ろしくて犯せないものとなるでしょう。

 
大昔の様な厳しい刑で犯罪を抑制
 
致し方なく犯してしまった犯罪には適用することはありませんが、「故意の悪行」には徹底した厳しい刑罰が与えられるべきだと考えられます。
 
犯罪を起こさせないという抑止力は必要なことであると思うのです。アメリカやイギリス、フランスやインドなどが「核兵器」を持っているのは、他国から襲われない様にしている抑止力の1つです。
 
強盗や放火、集団暴行などで命をむやみに奪うという「故意の悪行」をした者は、恐ろしい刑罰が待っているとなればどうでしょう。
死刑という刑は犯罪者を、逆に楽にしてしまいます。
脳死状態になれば何も痛みを感じなくなるので、被害者の痛みも与えられなくなってしまうのです。
 
細胞で作られている生物には神経というものがあり、痛みという苦しみが脳に届きます。
痛みを与えることこそが真の厳しい刑罰であり、犯罪をさせない抑止力と知らされるはずなのです。
 
第二次世界大戦後の近代社会に入って、特に先進国などでは民主的な裁判制度が設定され、拷問の様な刑はタブーとなりました。
 
その昔、ヨーロッパでもアメリカでも犯罪者には恐ろしい刑罰がありました。
生きながら苦痛を与え続けられることこそ恐ろしい罰はありません。そんな恐ろしい刑を受けたくはない人間は悪行を起こさない気持ちになるはずです。
 
それでも犯した者は捕まりそうになれば自害を選ぶしかありませんでした。捕まったら最後、生きながら地獄にいる様な苦痛を味わされ、なかなか死なせてはくれません。
日本でも五右衛門風呂というのを聞いたことがあるでしょう。本当に石川五右衛門が釜茹で入れられたかは分かりませんが、これも恐ろしい刑罰だったのかもしれません。
 
痛々しい刑罰というか拷問は、ドラマ「仁」でも観たことでしょう。江戸時代にタイムスリップしてしまった医者の仁先生が、犯罪人に間違われ行われた拷問は痛々しいものでした。
角ばった3本の木材の上に正座をさせられ、その足の上に思い石を載せられるというもので、ひざ下脛は角ばった木にめりこんでしまう程の痛々しさなのです。
 
こんな様な恐ろしい刑罰というか拷問というか、そんなのが犯罪人に与えられるとなれば悪行もできなくなるでしょう。
例えば、悪質な強姦罪には生殖器切除の刑罰とか、強盗殺人刑は両手切除などの恐ろしい罰を定めるとなれば、こういった悪行犯罪の抑止力になるはずです。
悪質な者には被害者の苦痛を理解させる刑罰を与えなければ、永遠に悪行犯罪者は無くせません
死刑制度は最高刑ではなく、楽刑です。生きて神経による苦痛を与え続けることが最高刑なのです。
 
 
「刑務所に入りたい」と言ってわざと犯罪をやる者もいなくなるでしょう。
刑務所は恐ろしい拷問部屋だと知れば・・
 
民主主義は誠実な人にとっては大変に良い社会です。
しかし、悪行を犯す者にとっても大変優しい刑罰の社会です。(痛々しい刑は無い)
故意に悪行を犯した者」にのみ拷問の様な恐ろしい刑を定めるべきではないでしょうか・・
 
高度な知能生物である人間には、そういうことでもしない限り「強い犯罪抑止力」とはなりません。
 
現代の民主的な優しい刑罰では、悪行を無くすことは永遠に不可能だと思うのです。