少し前のことですがドラマ「麒麟が来る」を観た時のこと、主人公の明智光秀が戦で生死を彷徨っていた時、光秀の妻は(土砂降りの中)お百度参りをしながら必死に夫のことを祈っていた場面がありました。
その場面を観ていた時にふと脳裏に、何故か「心・魂に男も女もない」という想い(直観)が浮かびました。何故その場面でそんな言葉が浮かんできたのかは分からないのですが、この今回の記を綴るきっかけとなったことには違いありません。
魂には男も女もなく、今のこの人生はその性(体)で生まれてきただけという、亡き祖母も考えそうな記を今回は綴っておきたいと思います。
男なんだから、女なんだから、などという性別差別はいけないという男女平等の考えは平和な時代の象徴なのです。力の弱い女性が平等を訴えることのできる、平和な時代だということです。
幼児の頃までは男女という隔たりがないようでも、青年になるにつれて考えさえも異なっていきます。性別ホルモンによって身体も考えも違ってくるように出来ています。
「男の体に生まれてくること、女の体に生まれてくること」、身体的に備わるホルモンや臓器には若干の違いは出てきますが、同じ人間の体に生まれてくることには変わりはありません。
ただ肉体と言う乗り物が男や女というだけであり、心・精神(魂)には男や女は存在しないということです。
怒る時も、喜ぶ時も、悲しむ時もみんな同じ思いであり、そこに男女の差はなく同じ「心」があるだけです。
その証拠に年配者になってくれば、妻や夫はすでに家族であり既に男や女の関係ではなくなっているでしょう。いつしか「情」のある家族愛に変わっているのです。そこには男も女もなく、あるのは「愛と情」という魂(心)のみです。
人として生まれて来るには男か女のどちらかの体を選んでくるわけですが、それは偶然ではないように思えます。
それは乗り物にも例えられます。様々な乗り物がありますが、それぞれ乗り物によって能力が違っているのです。これに乗れば何ができるからという目的で購入するはずです。
例えば、単にドライブや買い物するためならば乗用車を買って乗れば良いでしょう。トラックならばたくさんの荷物を運べるわけですが、ドライブには向きません。バスは多くの人たちを乗せることができますが、買い物に行くには適しません。バイクは狭いところでも通れますが、雨や雪には困ります。
魂も同じような感じで、どんな目的で体を選ぶかを決めてくると思うのです。生まれてくる目的(役)をするために、その身体(能力)を決めるのです。
こんな実話があります。
昔、視力の弱い女性がいました。太平洋戦争が終わりの頃、身ごもったその女性の相手は祖国に戻っていきました。
残された女性は女の子を生みますが、だんだんと目は見えなくなっていました。頼りのお爺さん(父)も間もなく世を去り、その子との二人きりで生きていかなければなりませんでした。
どうにか中学を出ることができた娘は、目の見えない母のために一生懸命働いた末、立派な一軒家を建ててくれました。その子は盲目となる女性の助け人として生まれて来てくれたのでした。
実はその助け人としてこの世に生まれた娘は、私の母となった人でした。
私が生まれたのも一つの理由ではありますが、様々な状況があって母は女として生まれなければなりませんでした。様々な要因によって、女でなければその境遇(試練)に対処できなかったのです。
女だからできたこと、男だからできること、それぞれ目的があってその性を選ぶのでしょう。
助けるために生まれてくる魂(心)には、もともと性別などなかったのです。
魂(心・思い)には男も女もなく、この人生はその性(体)で生まれてきた役目があったのです。
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