「ただ生きているだけで価値のある役目」そういうのもあると思える記




ただ生きているだけで価値のある役目、

そういうのもあるのだと思えます。

人はみんな,何かしらの役目を持って生まれてくるはずです。

役目を持って生まれてきたので、みんな価値があるのです。

生物(植物や動物)はみんな、子孫を残す役目を持って生まれてくるので、そこに価値があるということです。

その中でも人間は優れた知能を持つ特別な生物なので、「生きる価値」や「生まれた役目」など考えてしまうのものですが、基本的には同じ役目を与えられていることは確かでしょう。

ただ今こうして生きている、この世界に存在しているだけの役でも価値があると考えられるのです。

病気で寝たきりの状態の人でも、家族にとっては生きていて欲しい存在ですから、そこに生きている価値はあります。

事故や病気によって植物状態になってしまった我が子をずっと観ている親の気持ちは、本当に痛いほど分かります。(我が子を持ったことのある人ならば、その気持ちは分かるでしょう)

ただ寝ていて反応が無い状態であっても、可愛い我が子は「生きていてくれさえすれば、それでいい」のです。

いつかきっと目を開ける!」という希望と共に、親は夢を持ち続けて生きることができるのです。絶望と深い悲しみに襲われることなく。

生まれて生きた人には全て何かしらの深い意味があり、価値があるのだと思います。

長く生きた人もそうですが、途中まで存在していた人でさえ、親や兄弟・家族や友人など、周りに何かしらの影響を与えたという役目になったはずですから、すべての人に価値があるということです。

生まれて何の役目や価値の持たないものはありません。(母無く誕生でき、無人島で孤独に一生終わる場合は別ですが・・)

今はホームレスになってしまっている人でも、生きるために毎日食料を得るために何かしらしているはずですから、その何かしら(日雇い労働や缶集め)が役に立っているのです。

また、子供の頃や学生の頃に「可愛らしさで親を喜ばせたり」「友人の話相手」「知り合った人に何かしらの影響を与えた」など、そういう役目としての存在価値があったはずなのです!

昨年このサイトの別ページにも記した通り、私は「40年前まで父親だった人」の介護支援手続き等を行って現在も管理をしております。何かあればすぐに駆け付けて対応する役目になっています。

40年前、子供の養育も全て母に任せて去っていった身勝手な人間、何の取り柄も無く先の事を考える頭脳も持たない「情けなく思える人間」だとしても、生物の基本的役目は立派に果たしました。それは・・

私という子孫を作ったという役目です。

こんな人でも、存在していなければ私の人生は無かったという意味にもなります。

介護支援を受けて生活ができている現在は、自分では買い物もできず食事を作ることもできず、入浴も「デイサービスの介護入浴」となっています。

当然に私とは離れた所に住んでいるので、ヘルパーさんなどの介護支援がなければ今は生きてはいられないでしょう。介護金の請求書は私に届きますので、決して多く貰っているわけではない年金から支払い、尚且つ家賃や光熱費など振り分けしてあげる役目を担っています。

毎月訪問する時にはある程度の買い物等をしてあげますが、何の「感謝の反応」も感じられません。痴呆症が進行している状態だと思われますが、寝て食べてを繰り返しながらカレンダーも分からなくなった毎日をただ生きながらえているこの人を視ると、時々私は思います。

「こうして毎日ただ生きているだけのこの人に、果たして何の価値があるのだろうか?」と・・

こうして老いて体が動かなくなってしまう前には、勝手に自由気ままに生きていた人間です。

しかし、子孫を残していたおかげで「ゴキブリごみ屋敷」から、こうして綺麗になった部屋でベッドに寝ていられるのです。 (↑別ページ参照リンク)

痴呆症が進んでいるせいか、記憶力や認知力が日に日に弱っていってる状態ですので、昔の話を蒸し返しても無駄なことと割り切っていますが、せめて最後までにもう一つくらいの価値を作ってもらいたいと思うものです。(今となっては私が代わりに考えなければなりませんが)

あの時助けられて、そして今まだ生き長らえた意味、役目と価値があったと思えるように・・


みんなそれぞれ何かしらの役目があって、その役目に価値が付いているのだと思います。

家族の役目、友人の役目、同僚や仕事関係の繋がり役など、みんなその役目に価値があります。

「ただ生きているだけ」でも、何かの役目であり そこに価値が付いているはずなのです。