1980年代のヨーロッパを旅していたアルバムを観て想う記!




1980年代のことですが、先日押入れの奥からヨーロッパを旅した時の古いアルバムが出てきましたので、それを観て想いに耽ったことを今回は記してみたいと思います。

冒頭の画像を見れば分ると思いますが、その当時はまだデジタル式の発着案内板ではなく、久米宏と黒柳徹子のTV番組「ザ・ベストテン」で曲の順位を表示する、あのパタパタと音を立てて変わる表示板と同じでしたね~! 懐かしいですなぁ~ 私もまだ若かったですから・・

先に「アメリカ自由旅の想い」を記してありますが、それとは別にアルバム「ヨーロッパ編」を残していたので,随分と間が開いてしまいましたが今回やっと記する機会となりました。

時は1987年初冬、「ロマネスク87’」という旅名を付けて企画はされました。

当時はまだ学生のため、資金も多くは用意できませんからアルバイトで貯めた僅かなこずかいで旅をスタートさせたのですね~ 今と違って、まだ若いので体力もありましたから・・

(写真をアルバムから剥がして撮るのは面倒でしたので、全てそのまま撮ってます!)


*それでは追想スタートいたします~  記していると想い出していきますから・・

成田からパリへ何時間かかったのか!

成田から出発したのですが、なにせ当時の格安航空券で「エジプトエアライン」を選んだため凄い遠回りのルートだったのですね~ 直行便とは違いすぎるくらい時間がかかるのでした!

成田~~マニラ~~バンコク~~カイロ(エジプト) と長い時間かかって疲れます。
この後,カイロ(エジプト)で機体を降りて乗り換えさせられます。ここで成田を出発してから20時間くらいだと記憶に残っていますね~(給油時間など含め)

次はイタリア経由でパリへ向かう機体(エジプトエアライン)なので、ここで乗客がガラリと変わったのを覚えています!(アジア人からヨーロッパ人の乗客へ入れ替わりという雰囲気)

カイロ~~ローマ(イタリア)~~パリ(フランス)と、やっと着いたのでした!(疲れた)

↓画像は空港からパリ市街へ着いた時の様子(1987年2月)


ドゴール空港に初めて降りた時に想い出すことは、トイレでチップが必要だったことでした。トイレ内で管理する人がいて、手洗いのタオルサービスなどでチップを取られた様な記憶あり(日本では無いことなので驚きでした・・)

パリ市街を歩いていると、排ガスの匂いなのか凄い空気が汚れている感じを覚えています。歩いていると気持ち悪くなるくらい空気が悪いと思いました。(今はどうか分かりませんが)

 

1987年のパリ市街の様子です。街の様相も大切にするヨーロッパなので、今でも大きくは変わっていないのでしょうかね~?

上の画像にある、エッフェル塔も凱旋門も今でも健全なのでしょうけど、右下に写っている地下鉄の雰囲気は当時よりはだいぶ変わっているのでしょうね~!

この頃はまだトラベラーズチェックを現地通貨に両替をすると、フランスですからフランという通貨でした。有名なお店以外は英語があまり通じなかったので苦労しましたが、見よう見まねで食事やホテルを取ったり、市内観光をしていたのでしょう!

フランスのパリがヨーロッパ旅行のスタート地となりましたが、2日~3日ほどの滞在で次の国へ移動することになっていたのでした。もっとゆっくり滞在したかったのですが、多くの国を巡る欲張りスケジュールの企画だったため仕方ありません。

つかの間の滞在、有名なシャンゼリゼ通りを撮ってパリともお別れでした。

ヨーロッパ鉄道を使って、次はベルギーを越してオランダ・アムステルダムへ向かいました。

その当時、ヨーロッパ鉄道の周遊パス(ユーロパス)というのが始まっていて、多くの日本人旅行者が使い始めていたのですね~(今でもあるのでしょうけど)

日本ではあまりない客車「コンパートメント」に乗った時は、ヨーロッパ鉄道に乗れたんだなぁ~!と実感しましたね~

オランダといえば、風車なのだという固定観念で風車を観に行ったものです。(オランダのイメージはそれしかなかったので・・)

ドイツ統一前の西ドイツへ

僅かな滞在でオランダを後にし、西ドイツへ向かいました。(下の写真は1987年当時のフランクフルトの駅内)

その当時はまだベルリン崩壊にはなっていませんでしたから、東ドイツと西ドイツで分れていたのです。(この2年程後にドイツは統一)

フランクフルト駅でドイツの通貨であるマルクへ両替して、宿探しに出かけました。

ドイツ語を勉強していたのですが、私がドイツ語で尋ねると「この東洋人はドイツ語ができるのね!」と思われ、思いっきり早口で喋られてしまい、ヒヤリング不足を痛感させられたのでした~(何言われたかよく聞き取れず・・ショックでした)

ビールを飲料水として飲むドイツ人に混ざって、ビールを飲みたいと街へ出たのですが、本場のビールは日本で飲むビールよりも薄く感じたことを今でも覚えていますね~(だから沢山飲めるのかなぁ~と思った)

ドイツでは、もうひとつの歴史ある街を訪れました。日本人が観光するには有名ではない街「アウグスブルク」です。有名観光地ではない街へ訪れたいという気持ちは、アメリカ旅行の時から持っていたので、単純にそれが続いている感じなのでした。

世界史で出てきた有名人「アウグストゥス」の街として、この街を知っただけの理由だったと思いますけど・・それ以外は忘れてしまいましたね~

西ドイツの滞在も慌ただしく過ぎて、次の国へと移動することに。寒い雪の中、列車はスイスを抜けてオーストリアへ進みます。

上の写真アルバムは、ジュネーブに着いた日のものだと思います。(下段)

ここでは、広いヨーロッパ大陸の中、逆廻りで旅をしていた元同級生に偶然逢うという場面がありました。同じヨーロッパを旅行することは聞いていたのですが、ジュネーブの銀行両替所で同じ日の同じ時間に出逢う確率は凄いものだと、この時お互いが驚いたのでした!

映画でしか観たことのない、ベネチアを歩く
急ぎ足の旅は続き、オーストリア・ジュネーブを出た後にイタリアへ入ります!
ヨーロッパは地続きなので列車内で国境超えが多く、車掌さんみたいな人がパスポートを確認しに来るのも日本人には貴重な体験なのですよ~。
下の写真は間もなく到着となった、映画でしか観たことがなかった街「水の都ベニス」ベネチアなのです。(本当に私は行ったのか疑ってしまう写真です!)
 
その昔、「リトルロマンス」という映画がありまして、その映画のファンだった私はこの光景に「これは夢じゃないか~?」とホッぺを抓るしかありませんでしたね~(自分がここに居ることが信じられない感じなのです!)
本当にイタリアという国は歴史的に観るところが多く、忙しい移動になります。下の写真はピサの斜塔へ上った時のものですが、当時はまだ中へ入れて登れたんですね~!この後しばらく経って、傾きが進行しない様に禁止になったことを聞きました。今はどうか知りませんが。
それにしても、イタリアの列車時刻表は合っていなかったことを想い出します。日本とは大違いで時刻表通りには列車は来ませんでしたから。記憶では1~2時間違っていた時もあったと。
イタリア・フィレンツェに滞在した後に、いよいよ旅の後半に入りました~
やっと来た列車に乗って、一路ローマへと向かいます!
下の写真アルバムは、当時(1987年)のローマの様子です。
観光地以外の市街地は、あれからだいぶ変わったのでしょうね!

 
*ローマでは、有名な観光スポット「トレビの泉」や「真実の口」「闘技場コロッセオ」など沢山あったので、本当に時間が足りませんでしたね~

あっという間に時は経ってしまうもので、もう次へ出発しなければなりません!次の目的地はギリシャなのです。イタリアのローマから南下してギリシャへ向かうフェリー乗り場へ向かいます。列車の故障もあったようですが、けっこう良いシートの席で向かえました。
  
 
 
夜のギリシャ行きフェリーに間に合って、イタリアを出国となりました。翌朝にはギリシャへ上陸、首都アテネまで列車で向かいます。(文字数も増えてしまったので、かなり飛ばしてます)

*ここで今でも覚えていますが、このギリシャのアテネへ到着した時に日本人若者旅行者が何やら集まって、日本からこの遠い国で出逢ったことを歓喜していたのですが、その1番の話題となった人物は「自転車を使ってアジア大陸をここまで来たというツワモノ!」の存在だったのです!
当時の戦争国イラン・イラクという危険な地域を渡って来たらしく、日本人には思えない(見えない)顔形だったのですが、凄いことだと皆に称えられて写真を撮られていたのです!
ギリシャといえば、上の写真にある「アクロポリスのパルテノン神殿」が有名なので当然に訪問していたのですね~ (ギリシャで想い出すことはこれくらいの記憶・・) 
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