「死」という怖いイメージの言葉は変え「卒」にした方が良いと思う記




人間が決めた亡くなるという意味である「死」という言葉は、生きている人にとっては怖いイメージのものとなっていいます。

人は誰でも今までに「死」という言葉を考えたことがあるでしょう。

幼い時は考えることもないと思いますが、ものごころを着いた頃には考え出すかもしれません。

毎日この世の中のどこかで沢山の命が終わっています。自分の周りでもその順番が来る時があります。

動物も私たちも毎日食べるために何かの命を終わらせているのです。

100記目になる今回は、人間が名付けた「」という言葉について考えてみようと思います。

中高年齢になれば必ず何度かは葬儀に参列した経験があると思われます。

以前何かの記でも書いた通り、私も友人の葬儀に何度か参列しなければならない悲しい経験をしてきました。

若いころを一緒に過ごした仲の良い友人らが今世に存在していないことが、今でも信じられないまま時間は経っています。

学生の時、あるクラスメイトになった奴が「死んだらお終いで、その後なんて何も無いよ!」と言っていたのを今でも覚えています。

しかし、私は若い頃から「死後」も自分は存在すると思っています。今でもです。

私の手のひら両手ともに、ど真ん中に十文字が記されていますので「目には見えないこと」を信じる性質に生まれたの為なのか、この歳になるまでに幾度か「運命鑑定」や「霊能鑑定」等の占い関連に診てもらいに行った体験もありますので、そういうものを信じるとか興味を持つ性質に生まれた「証」として刻まれているのだと納得させられたものです。


人が作った「死」という言葉

物理的に「死」とは体が全く反応しなくなること、各臓器が全て停止して血流もなくなり細胞活動も止まる状態となります。

止まった細胞は無防備な状態になり、抵抗もなく侵入してくる細菌の分解によって徐々に形を崩していきます。

現代は、たいていの国で「火葬」という、亡くなった人間の体を焼却し灰にすることになっていますが、火葬場のなかった昔には「埋葬」がほとんどだったことでしょう。

近年オリンピックへ向けての新しい競技場を建造する際には、江戸時代ものといわれる多くの人骨が出てきたニュースを聞きました。

人間という動物がこの地球に誕生してから、いったい今まで何百億人の人が土に埋められてきたことでしょうか!?

電池を入れ替えればすぐにまた動き出す様な機械の体を持っているわけではない今の私たち人間は、どんなに偉そうなことを言っていても 遅かれ早かれ動かなくなる時が来ます。


我が子に問われた経験がある人もいるかもしれません。

死んだらどうなるの~?

聞かれた大人も 本当の答えは分かりませんが、

大丈夫よ~!まだまだ ***ちゃんは死なないからね~!」

または

あの綺麗な星さんになるかもね~!」とか

怖がらせないような言葉を言ってあげなければなりませんよね・・

物心を着いた幼い子供たちでさえ、何となく怖がる言葉であり

遠い昔から「死」というのは恐れるべき怖いイメージの言葉(不気味な言葉)になっているのです。

「死」という言葉は【卒】という言葉に変更した方が良い!と思う理由

先に述べた通り、遅かれ早かれ全ての人に体が終わる時が訪れるわけですが

それでは「今までの想い、思考」という、「心」はどうなるのでしょうか?

「気持ち」というのは、体(細胞)と一緒に焼却されてしまい、最終的には炭素という素粒子に戻ってしまう物質ではありませんよね~!

肉体は動かなくなって反応もさせられなくなってしまう状態を「死の状態」とすれば

それを動かない何の操作もできなくなった自動車と例えればどうでしょうか?

車体は解体屋へ運ばれて、使える部品だけ取られて鉄として溶かされることになりますが、

中に乗っていた運転手は、動かなくなったその車から出てることになるでしょう。

つまり、この運転手こそ 人の体でいう「心」だと考えるのです!

次の車が見つかるまでは運転はできません。

しばらくしてから、やっと見つけた車でも、色も形も操作も違うので

また一から操作を覚えて慣れていかなければいけません。

これが人でいえば、「生まれ変わり」ということになるでしょう!

あらためて誕生してから、幼い時には前回の記憶も残っている人がいるのは
こういう訳なのだと私は思います。

そういう意味では、「死」という不気味な怖いイメージの言葉よりも

次の人生へ向かうための今生の【卒】という言葉の方が適しているのではないでしょうか。

死んだら全てお終いの「」でしかない!と思っている人は死んだら是非私のところに謝りに来てください!

と、江原さんのYouTube動画タイトルを見かけたことがあります。

欧米の医学権威者の一人も「自らの臨死体験」から、人の精神(心や思い)は消えずに存在すると訴えているようです。

私は木内さんという臨死体験者の話も信じていますが、江原さんの「オーラの泉」で言っていた 「自分の前世でもあり、守護霊でもある方が後ろに憑いて見守っています!」

という一言が どういうことなのか分からずに今でも頭に残っているままです・・

自分の前世でもある!」とは・・? この部分が分からないのです。

毎日、目が覚めると新しい一日人生である!

人間以外の動物には時間という概念は存在しません。カレンダーも関係ありません。

時間や月日は人が勝手に作った定義です。時間や月日があると約束を決めることもでき、決め事の基準も作れるので便利だからです。

でも、この世やこの広大な宇宙で作られた決め事(概念や定義)ではありません。

全て生物は生まれて成長し、そして老いていくのですが、その体が使えるまでの間は

今までの記憶を持ったまま毎日寝て起きれば、また新しい一日という人生があるのです。

それは他の動物と同じ目的である、今日も生きるという使命です。

存在している限り、体が動かなくなるまで いつまででも生きるという役目なのです。

そして、体は古くなっていきますので次の体を新たに作るという使命もあります。

「何のために生まれて生きるのか」が、全ての生物の役目【共通の定義】

生物の基本は単純に「なるべく長く生きて」「多くの次を作り、種族の存在を絶やさない

これだけが大きな存在意味(生まれた意味)です。

戦国時代よりもずっと昔から「・・家の存続のために」と、その家系が絶えないように考えてきました。

日本国の天皇家もどの国も、大昔から王族は受け継がれて今世に残らねばなりません。

どんなに優れた一代でも絶えてしまえばお終いなのです。

また、逆に優れてなくとも 次に継がれるならば、この世の中では勝ちとなります。

1つの「死」は一つの「生」に繋がねければならない役目・意味であり、

それがつまり「この世にいる全生物の定義」ということなのでしょう!

 

「死」は終わりではなく1つの役目を終えた まるで「卒業」だと思うのです。

生まれてすぐに、または間もなく逝かねばならなかった定めの場合もありますが

生まれた使命は全ての生き物に与えられているものです。

人間は頭脳が優れていて余計な事を考えられるので、「生まれた使命」が様々な形で勝手に考え作られますが

みんな本当は解かっているのです! 生まれて大きく育っていって、死ぬ前に何をしなければいけないのかを・・

どんな学校に入学しても、決められた期間内に定められた単位を取得し、そして無事に卒業すること

これは、人生に大きく例えることができるのではないでしょうか。

この世に入ってきた限りには、成長していくごとに 自分に起こる出来事の全てに対応していかなければなりません。

それが与えられた人の世という定め(カリキュラム)のようです。

みんな無事に卒業したいのです。途中で中途退学してしまう人も出てきますが、最初から中途退学をしようと思う人はほとんどいません。

その人の定めも大きく左右しますが、生まれた限りは人生を全うすること、使命を果たすことが目標なはず。

人生様々な早い終わり方がありますが、全て致し方がなかった「卒業」であると言いたいものです。

「大往生」で「卒業」となれる方は一握りの数であり、最も優秀なシナリオを与えられた、選ばれた人かもしれません。

短いも長いも、その全ての者の今生が定められた物語(シナリオ)であるならば、

終わりという「今生の死」は、「今生の卒業」という言葉の方が相応しいのではないだろうか!

と、私は心から思うものであります。

 

 


今回はこのサイトでの100記目となる記念の綴り(想い)になりました。

そして私も運良くまだ今生が続けていられることに感謝でいっぱいです。

おかげさまで多くの方々が様々なページに訪問して頂ける様になりましたこと、心から感謝しております。

今生の体を持ち続けられる限り、ここに綴っていきたいと思っております。